バタフライエフェクト
仁王雅治9月15日(月・祝)、22日(月)
デフォルト名:堀川 紗英
休日に訪ねてきたは、仁王の部屋に上がるなり勉強道具を広げ始めた。
「何をするつもりじゃ」
「言わなかったっけ? 見せてよ、これ」
数学得意でしょ、と言いながらプリントを取り出す。
今週実施される小テストの対策問題だった。
かつてと勉強の話をしたことなどあっただろうか。
せいぜい、試験前に愚痴をこぼす程度だったはずだ。
部活が一段落したことでやる気でも出たのか、と考えながら、仁王もプリントを探す。
「勉強の相談とは、珍しいのぅ」
「まぁ、さすがに毎回赤点は進級ヤバいし」
そんなにも赤点続きなのか、と仁王は内心で面食らった。
長い付き合いから、どうも数学が苦手らしいことは把握していたが、そこまで切羽詰った状況だったとは。
は仁王のデスクに持ち物を出すと、我がもの顔でどっかり座った。
ノートやシャーペンを並べたにもかかわらず、受け取ったプリントをただじっと眺めている。
「見るだけでわかるようになるんか?」
「んー微妙」
その答えはすなわち、わからないということだろう。
「由麻はね」
頬杖をついてプリントを見つめながら、がポツリと言った。
「柳生が全教科教えてくれるんだってさ。専属家庭教師よね」
なるほど、マネージャー仲間とそんな話をしたせいだったか、との行動に納得する。
それで仁王の得意教科が数学であることを思い出したのだろう。
柳生が恋人にお節介を焼く姿は、想像に容易い。
果たして彼女が喜んでいるかどうかは疑わしいが。
「俺もなったほうがええんかの、家庭教師に」
仁王は小型のスツールを引き寄せ、の隣で腰掛ける。
が顔を上げ、ジトッと仁王を見た。
「そういうつもりで言ったんじゃないんだけど?」
「懇切丁寧に教えてやるぜよ」
「もー、プリント見せてくれるだけでいいの!」
は口を尖らせてむずかる。
そう煙たがることもないだろうに、と仁王は小さく笑う。
「テスト勉強するんじゃなかったんか」
「点数上げたいだけで、努力するつもりはないから」
正直なのは良いが、なんとも図々しい願望だ。
「雅治に教えてもらわなくたって大丈夫、もう赤点にはならないって」
「本当かのぅ」
「ほんとだってば!」
「それなら、小テストの結果次第じゃな」
「えー、見せろって言うの?」
がぼやいて机にゴロリと頭を乗せる。
この調子だと、申告してこない可能性が高い。
と同じクラスの幸村に、返却日を確認してやるか。
そういや興味深いことを言っていたっけ、と仁王は幸村の話を思い出す。
恋人の尻を叩いて叱るなんて、アイツらしいといえばらしい。
しかも件の彼女は仁王と同じクラスなのである。興味が湧くのも当然だった。
あの優等生女子と話したことはほとんどない。
幸村の前ではどんな態度なのだろう。
理知的な印象だが、彼氏から叱られれば泣きもするのだろうか。
見てみたい、なんていうと悪趣味だけれど、それが人情というものだ。
突っ伏すの髪が、サラリと机に落ちる。
仁王はそれを指で梳かしながら、ぼんやりと眺めた。
ならどんな反応を示すだろうか。
人の彼女ですら気になるのだ。
に効果があるか、好奇心が疼かないはずもない。
仁王は机に肘をかけて、の顔を覗き込む。
「点数を上げたいなら、いい方法があるぜよ」
そう言われてもは喜ばない。
黙ったまま眉根を寄せた。
仁王が何かたくらんでいることに勘付いているようだ。
「赤点取ったらお仕置き、でどうじゃ。やる気が出るじゃろ?」
「……だから、取らないって言ってんじゃん」
「だったら何の問題もないのう」
「じゃあいいよ? 別にそれで」
から威張りなのか、本気にしていないのか、は強気に答えた。
「まぁこのプリントさえやっておけば、なんとかなるじゃろ」
ここいらが出るかもな、と問題の一部を指差す。
小テストでは、試験範囲の終盤にある大問から出題される傾向にあると仁王は読んでいた。
「じゃ、これ貸しといてよね」
同じテストは仁王のクラスでもあるが、見直す必要はないだろう。
に預けておいても構わなかった。
勉強を取り止め、早々にプリントをしまい込むの背中へ、仁王が一言投げかける。
「言うとくが、冗談じゃないぜよ」
「……何、お仕置きってやつ?」
「ほんまにするからの、よう覚えときんしゃい」
「ハイハイ、赤点取らなきゃいいんでしょ」
はいい加減な返事をしながら、携帯の時計をチラリと見る。
「それよりさぁ、まだ時間早いし、ちょっと出かけようよ」
せがむように服を引っ張るに、仁王は軽く息をついて微笑んだ。
***
数学の小テストは案の定、仁王がヤマを掛けたところから出題された。
上々の結果にささやかな喜びと安堵を覚えつつ、はどうだっただろうかと思いふける。
多少の時間差はあれど、全クラス同日に実施されたらしいから、返却も同時期だろう。
いよいよ幸村のリークが役に立つかもしれない。
そう思いながら部室へ行くと、中にはがいた。
「っ……!?」
は、仁王の姿を認めるや否やビクッと過剰に反応を示した。
「あのっ、すぐ、出るからっ……」
見たところ何かの作業中だったが、は即座に手を止めて扉へ向かう。
仁王と目を合わせようともせず、そそくさと出て行ってしまった。
バタンと閉められた扉を、仁王は鞄を持ったまましばらく見つめた。
どうやら、幸村に聞くまでもなさそうだった。
部活中も帰り道も、はわかりやすく動揺していた。
沈黙を避けるかのようにやたらと話しかけてくるも、仁王が相槌を打つと会話は途切れる。その繰り返しだ。
自室に招き入れてからもソワソワしっぱなしで、今だって普段はしない長座になり、前屈の真似事をしている。
「…………暑いね」
手で顔をパタパタ仰ぐ仕草は、どこかぎこちない。
さて、どう探りを入れるか、と仁王は薄笑いした。
「約束、覚えとるか?」
唐突に切り出すと、はピタリと動きを止めた。
なんとわかりやすいのか。
急な問いかけで反応を見てやろうという策略は、予想以上に有効だった。
「そんなの、覚えてないっ……」
が視線を落とす。
つくづく、嘘の下手な奴だ。
まだ内容に言及していないのに、すぐさま否定するなんて何の話かわかっている証拠でしかない。
「覚えとるって顔しとるぜよ」
体を寄せて覗き込むと、はすぐにボロを出した。
「……お仕置きって、何するの……?」
聞かずにはいられないのか、が不安そうな目で顔を上げる。
仁王は含み笑いとともに口を開いた。
「お尻ペンペンじゃ」
が眉をひそめる。
コミカルな単語がこの場にそぐわないと感じたのかもしれない。
訝しげに瞬きを繰り返した。
「お仕置きってもっと、そういうのじゃなくってさ……」
「お前さんが何を期待しとったか知らんが、望まれたことをしてもお仕置きにならんじゃろう?」
実際、何を想像したのだろうか。
少し気になるが、ここでは問い詰めない。話を戻す必要があった。
手の平を上に向け、に向かって差し出す。
「見せんしゃい」
はためらいがちに、鞄から答案用紙を抜き取った。
半分に折られた紙を広げると、16点の文字。
当然、満点は百だ。
「こりゃ見事な赤点じゃのう」
嫌味たらしく視線を向ければ、が不快感を露わにして頬を膨らせる。
「だって、苦手だし、数学……」
「苦手だとわかっとって勉強を投げ出したら当然こうなるじゃろ」
当てつけがましくテストをひらつかせると、は黙り込んだ。
ヤマは見事に当たっていたし、練習問題と比べて難しかったわけでもない。
この結果は単なる演習不足といえるだろう。
仁王は答案用紙を机の上に置き、向き直る。
「さて約束通り、お仕置きするとしようかの」
伸ばした手は、パシッと払いのけられた。
そうじゃろうな、と仁王は自嘲的に笑う。
本当にお仕置きされる展開になるとは思っていなかったのか、は焦っているようだった。
表情は変わらず強気であるものの、腰が引けている。
むやみに怖がらせたいわけではないが、全く効果がないのも考え物だ。
匙加減が難しい、と静かに息を漏らした。
改めて接近し、細い手首を引く。
今度は、しっかり握って離さない。
振り解けないと悟ったらしいは更にうろたえ、甲高い声を上げた。
「やだっ、離してよっ……!」
「それは聞けんな。大人しくしんしゃい」
腕を引っ張りながら、ベッドに腰を下ろす。
抗うを押さえつけるように、膝へ横たわらせた。
まずは一発目だ。はじめが肝心だろう。
この“お仕置き”が遊びでないことを伝えなければならない。
すなわちそれは、がどんな反応をしても「冗談冗談」で済まなくなるということである。
事によっては、喧嘩別れもあるか。
そんなリスクを負ってまで試すことだろうかと、仁王は苦笑いする。
決して捨て鉢のつもりはなかったが、流れがこうさせたのだから仕方ない。
覚悟を決め、左手を振り上げる。
本気が伝わる程度に強く、それでいて全力は出さずに。
バシッ! と鈍い音が、スカートの上で鳴り響いた。
まずまずのバランスといえるだろう。は暴れ出してしまったが。
「やだもうバカッ、最低! 離してったら!」
後に引けなくなったことを実感しながら、の腰を抱え直す。
尚もジタバタするの華奢な肘が、太腿に直撃した。なかなかに痛い。
お仕置きというものはもう少し粛々とした雰囲気の中で行われると思っていたが、が大人しく従う様子はまったくない。
素直に応じるなどとは期待していなかったものの、予想以上の抵抗に若干の迷いが生じていた。
しかしここでやめたらどうなるか、目に見えている。
きっとは強い口調で怒鳴り、もう知らないだか何だか言って、下手をすればそのまま帰ってしまうだろう。
ひとまずが殊勝な態度になるくらいまで持っていかなければ、このお仕置きは逆効果になる。
面倒なことになった、と仁王は再び苦笑した。
パシン! パシン! とペースを保ちながら、平手を振り下ろす。
本音を言えば、仁王は怒っているわけではなかった。
のテストがどうだろうと、仁王に影響はないのだから。
実際問題、このシチュエーションでお仕置きというのもやや強引な気がしていた。
プリントを貸してやったからといって、自分が責めることでもないだろう。
今回に限っては事前の取り決めもあったし、勉強をおろそかにした、という点をあげつらうことはできたかもしれない。
しかし仁王がどう理屈付けたとしても、彼女が受け入れてくれるかどうかだけが問題なのである。
ただ正直なところ、赤点は心配だ。
まさかこれまでも本当に赤点三昧だったのだろうか。
咎められただけで成績が上がるなんてこと、あったら誰も苦労しないのだが、勉強量を増やすくらいなら助けになれるのかもしれない。
都合よく、自分が数学は得意であることだし。
何にせよ、約束は約束だ。
今日のところはお仕置きとさせてもらう。
考えを巡らせながら改めてパシンと打った瞬間、腿に冷やっとするものが伝わる。
見れば、は小刻みに肩を震わせていた。
いつの間に泣きだしたのやら。
一体どうすればあの位置にある頭から、自分の脚に涙が伝わるのだろう。
しばらく観察しているうちに、指で涙を拭いてはスラックスを掴んで、を繰り返しているからだとわかった。
思えば、ここまで泣く姿は仁王にとっても初めて見るものだった。
映画を観て目を潤ませていたことはあるが、そのときも泣いてないと言い張っていたっけ。
からかうと「もう雅治と映画は観ない」とヘソを曲げたんだったか。
結局すぐのほうから誘ってきたのだけれど。
はひっくひっくと喉を鳴らしながら、両の指先で目元を擦る。
仁王に悟られぬように、こっそり涙を拭いているつもりのようだ。
泣かせてやろうなんて気はなかった。
いや、泣くとは思わなかったというべきか。
良く言えば天真爛漫、悪く言えば気難しいのこと、仁王の前で神妙にすすり泣くなんて想像もしていなかった。
抵抗しなくなったということは、それなりに反省の気持ちがあるとみなしていいはずだ。
お仕置きとしてはこれで十分だろう。
そう判断し、脇の下から支えるようにしてを抱き上げる。
「、もう終わったぜよ」
体を起こすと、はすかさず背中を向けた。
「こっち向きんしゃい」
覗き込もうとすると、顔を隠すように手で覆った。
「いやっ……顔、ぐちゃぐちゃだし……雅治に見せらんないっ……!」
こもった涙声でそう言うのを、聞いていないふりをして、指の一本一本をゆっくり解くように顔から剥がす。
「やだぁ、見ないで……っ」
「いやじゃ」
ほんのり赤く染まった目と、鼻と、唇が現れる。
その姿は艶やかで、には申し訳ないが色っぽさすら感じられた。
目の端を親指でなぞってやると、は濡れたまつげを瞬かせ視線を上げる。
「良い泣き顔しとるのう」
「んもぉっ……、バカぁ……」
が首に腕を回してきた。
また顔が見えなくなったのは惜しいけれど、この体勢も悪くない。
こんなことをしてよかったのだろうか。
そんな逡巡が仁王自身にもあったが、幸い嫌われたわけではなさそうだった。
おかげで、悪態をつきながら甘えるという、の可愛い一面も見ることができた。
まぁ良しとするか、と考えながら、ぎゅうぎゅう抱きついてくるの背中を撫でまわした。
<あとがき>
キーから見てカーが何を考えているかわからないっていうところが好きなので、カー視点で書くことは少ないのですが、当シリーズの仁王はときどきカー視点にしたくなりますね。
この時点では仁王が甘かったり淡白だったり、あまり本腰を入れてない様子ですが、結果的にお仕置きの効果が一番出るのは彼女じゃないかと思っています。
19.03.03 UP