ドラスティック・セラピー
柳生比呂士9月15日(月・祝)
デフォルト名:進藤 由麻
チャイムの音を聞いて玄関扉を開けると、立っていたのは塾帰りの比呂士だった。
「なんだ、来たの。上がってく?」
誰もいないし、と招き入れると比呂士は怪訝そうな面持ちで口を開いた。
「……体調が優れないとのことでしたが」
「別に? そんなことないけど」
答えてから、ああ、と思い至った。
「塾にはそう言ったけどね」
比呂士とは同じ塾に通っている。
私が欠席していたから、プリントを持って来てくれたんだろう。
ズル休みのためについた嘘を真に受けたらしい。
「せっかくの祝日だもん、たまにはサボったっていいでしょ」
自主休講よ、と言って部屋へ続く階段を上る。
「休息は大事ですが」
背後で低い声が響いた。
「あまりに多いのではありませんか?」
部屋のドアを開ける前に一度振り返る。
ジロッと比呂士を睨むが、身長差のせいで見下ろされる形になった。
「祝日の度に休んでいては、月曜の講義ばかり遅れてしまいますよ」
「何、わざわざ説教しに来たわけ? 私の好きにさせてよ」
本当、生真面目なんだから。
そこまでは声に出さないものの、苛立ちを隠す気はない。乱暴にドアノブを捻る。
後ろに続く比呂士がパタンと静かに扉を閉めた。
私が床のクッションに座ると、比呂士も隣に腰を下ろす。
喉が渇いていたわけじゃなかったけど、手持ち無沙汰なのが気になってテーブル上の水を一口含んだ。コップに注いでからだいぶ時間が経っているせいか、生温くて飲みにくい。
比呂士は鞄から数枚の紙をテーブルに出して、私の前と自身の前に振り分けた。
そしてしつこく、話を続ける。
「今日の講義の要点をご説明しましょうか?」
「いい。間に合ってるわ」
「さんは数学が苦手だったのではないですか?」
「うるっさいなぁ!」
しん、と部屋が静まり返る。
……ちょっと声を荒らげすぎたかもしれない。
比呂士は何も言わず、鋭い目で私を見つめていた。
必要以上に攻撃的だったのは認める。
とはいえ、今さら引っ込みがつかなかった。
「教えてくれなんて頼んでないし。余計なお世話だから」
勢い余って、強い言葉が口をついて出る。
親切心で来てくれたのだとわかっていても、今はその善意が疎ましい。
「さん」
至極冷静に名前を呼ばれて、ビクリと体が硬直する。
「そのような態度はどうかと思いますよ」
口を開きかけたけれど、返す言葉が見つからなかった。
目を伏せて唇を噛む。
ほんの一瞬でも、比呂士相手におじけてしまったことが悔しい。
比呂士は小さく溜息を漏らした。
「私も、このようなことはあまり言いたくないのですが……」
「言いたくないなら言わなくて結構よ!」
比呂士の言葉を遮って、目の前のプリントを引っ手繰る。
直情的にとった行動には余計な力が入っていた。荒っぽく払った指先が、机上のコップを揺らす。
「あっ……」
しまったと思ったときには、手遅れだった。
傾いたコップからは既に水が零れていて、比呂士のプリントを濡らしていた。
「……っ、…………」
気まずい沈黙が落ちる。
比呂士は落ち着いた様子で自分のハンカチを取り出し、躊躇なく水を染みこませた。
ごめん、と一言謝ればよかったと私にもわかる。
だけどこの状況で咄嗟に口にできなかったし、一瞬のタイミングを逃してしまうと、ますますそれは言えなかった。
代わりに出てくるのは、言いたかったのとはまるで別の言葉だ。
「……そんなところに、置いてるのが悪いんだからっ…………」
比呂士の眼差しが痛いほど突き刺さった。
私も睨み返すつもりでいるのに、視線は落ち着きなくあちこちへ揺れる。
息の詰まるような空気の中、比呂士が口を開く。
「……以前から感じていましたが」
比呂士が大仰な仕草で眼鏡を上げた。
「素直に非を認めて謝る、ということをしませんよね、さんは」
突かれたくないところを突かれた。何も言うことができなくて、さっきまでのように威勢よく返せない。
……もしかして怒ったんだろうか。
これくらいのことで?
いや、比呂士が言ってるのは今日のことだけじゃない。普段からの態度を指摘してるんだ。
「謝罪をしないということは、相手を軽視しているとみなされてもおかしくないですよ」
面と向かって注意してくる比呂士に、私はすっかり気を呑まれていた。
それでも、手の平を返したように態度を変えるなんてできない。
まるで比呂士にビビってるみたいで癪だ。
顔を背けて視線を外す。
「過ちを犯したことに気が付いたら、すぐに謝ればいいだけのことです」
「わかってる、わよ……」
「わかっているなら、言うことがあるのではないですか?」
強く拳を握って口を噤む。
言えるものならとっくに言っている。
理解するのと口にできるのはまた別の問題なのだ。
「謝罪を恥だと考えるのは、間違った自尊心ですよ」
恥ずかしくて謝れないということまでを見抜かれて、いっそう羞恥心を煽られる。
いくら促されようとも、こんな流れでごめんなさいなんて言えるわけない。
どうにかこの場を凌ごうと、ラグの模様をじっと見ながら、私は時が過ぎるのを待った。
ややあって、比呂士が深い深い溜息を吐く。
「どうしても素直になれないのでしたら、強硬手段を取りましょう」
空気が変わったのを感じ、場が異様な緊張感に包まれた。
目を伏せて、心臓の脈動を抑えながら、あっちの出方を窺う。
比呂士が改まって姿勢を正すのが、目の端に映った。
「お仕置きとしてお尻を叩きます。下着を下ろして私の膝に来てください」
えっ? と思わず顔を上げる。
比呂士の言ったことが信じられなかった。
聞こえてはいるのに、頭で理解できない。
「ちょっと、悪い冗談はやめてよ……」
「冗談に聞こえましたか?」
まさかそんなジョークを言うタイプでないことは百も承知だ。
比呂士はゆっくりとテーブルを退け、正座した膝を改めて示す。
「もう一度言います。下着を下ろしてここに来てください」
ただならぬ雰囲気に、寒気立つのを感じる。わななく唇で絞り出すように言い返した。
「で、できないわよ、そんなの……」
「……仕方ないですね」
手首を握られたかと思うと、無理矢理に引っ張られた。
比呂士の膝へ腹這いになるような形に倒される。
お仕置きとやらは単なる脅しで、しおらしい態度を見せたならそれで許してくれるんじゃないだろうか。はじめはそんな甘いことを考えていた。
でもこの様子は本気だ。
私は、比呂士にお尻を、叩かれる。
比呂士はごく自然に、制服のスカートを捲り上げた。
更に、下着までを脱がそうとしている。
とんでもない状況なのに、抗うことができない。
私の下着に手をかける比呂士に、いかがわしい雰囲気はまったくなかった。
ただただ、幼稚な私を罰しようという意思だけが伝わってくる。
お尻を露出させることにためらいがないのは、私が比呂士の彼女だからではなく、子ども同然の存在であるからだと言われているかのようだった。
パァン! と弾けるような音が壁に反響する。
比呂士は本当の本当に、私のお尻を叩いてみせた。
その事実だけで、いとも簡単に涙が滲む。
叩くとしても一回だけなんじゃ、などと私はまだ楽観していた。けれども、立て続けに三発を食らったあたりで、それはないと悟る。
形だけじゃない。
正真正銘、本気のお仕置きだ。
痛み自体は大したことない。叩かれる瞬間は確かに痛いけれど、その程度。
そう思えたのは最初だけだった。
次々に打たれ、お尻は徐々にヒリヒリと熱を帯びてくる。
いつも紳士的である比呂士から放たれたとは思えない平手打ちに、だんだんと恐ろしくなってきた。
こんな状況で私は、初めて手を繋いだ日のことを思い出していた。
ぎゅっと握られた厚ぼったい手指に、細身の体格と随分ギャップを感じて「意外とがっしりした手なのね」と話したんだっけ。
その掌は今、私のお尻に当てられている。
なんで比呂士を怒らせてしまったんだろう。
今日の行い全てを後悔する。
こんなことになるなら、塾をサボらなければよかった。
そうでなくても、来てくれた比呂士にお礼を言って、数学を教えてもらえばよかった。
水を零しても、すぐにごめんと謝ったら、それでよかった。
そうすれば比呂士にこんなことをさせずに済んだのだろう。
本当はそんなの、最初から全部全部わかってる。
なのに比呂士の前に立つと、プライドが邪魔をするのだ。
比呂士と対等でいたいだけなのに。
謝った方がいいって、言われなくてもわかってるのに。
それを比呂士に指摘されたら、もっともっと言えなくなって。
一際大きな音と共に、強烈な一発が打ち付けられる。
「あっ、ぅ……っ……!」
お仕置きはいつまで続けられるんだろうか。
平手打ちが止まる気配はなく、不安は募る一方だ。
冷徹にお尻を叩き続ける比呂士の厳しさが、ただ、怖い。
もう痛みを堪えることなどできていなかった。
平手を落とされるたびに、声と涙が自然と出てしまう。
「あぅ……あっ……! うぅっ……ああぁんっ……!」
悲しくて泣いているのか、痛くて泣いているのかなんて、もはやわからない。
比呂士が手を止めた。
肌を打つ音がなくなり、私のしゃくり上げる声だけが室内に響く。
「さん」
呼ばれたのだから、何か返すべきだったのかもしれない。
だけどまともな返事なんかとても無理で、ひっくひっくと情けない泣き声が漏れるだけだ。
「謝罪を避けて通ろうとする姿勢は、褒められたものではありませんね」
比呂士のトーンは非常に理性的だった。
それでいて、未だ厳しい雰囲気は崩さない。
「今日のような態度では、許されるものも許されなくなりますよ」
「……っく……うっ、ううぅ…………」
呼吸が苦しい。息をするだけで肩が大きく動いてしまう。
ぐずぐずの鼻も気になっているけれど、感覚がなくて上手くすすれない。
「謝ることができないと、周囲からの信頼を得られなくなります。扱い辛いとさえ思われてしまうかもしれません」
比呂士の言っていることはよくわかる。
恥ずかしくて謝れないだなんて、つまりは自分のことしか考えていないってことで。
それでも比呂士は、私に向き合って叱ってくれた。
わがままで自分勝手な私を、見放さないでいてくれた。
床に着いた手を、ぐっと握り込む。
「私はさんに、そんな人になってほしくありません」
こんなことを正面から注意してくれるのは、きっと比呂士だけだ。
本人が言いかけたように、比呂士だって嫌な話のはずなのに。
それでも忠告してくれるのは、大事に思われているからこそ、なのだろう。
トン、と背中に手を添えられる。
「言えますね、さん?」
「っ……、ご、めんなさいっ……」
素直に、謝罪の言葉が出てくる。
なかなか言えない一言も、心から反省すれば自然に出るんだということを知った。
後頭部をゆっくりと二、三度撫でられる。
それから比呂士は私の服を元に戻し、そっと抱き起こしてくれた。
顔を上げると、柔らかな笑みが返ってくる。
その表情を見たら、改めて謝りたい気持ちがこみ上げてきて、目の奥がまた熱くなった。
「わっ、たしのっ……ひ、っくぅ……」
私のことを考えてくれてるのに、真面目に聞かなくてごめんなさい。
そう伝えたかったのだけど、ひどい鼻声状態では難易度が高すぎた。すすり上げるのに精一杯で、先を続けられない。
比呂士がポケットティッシュを出してくれる。
ここは私の部屋なのだから自室のティッシュを使えばよかったんだろうけど、そんなところにまで頭が回らず、遠慮なく受け取った。
間を持たすように、比呂士が口を開く。
「それにしても、体調不良でなくて何よりですよ」
「…………心配っ、して、くれてたの……?」
ためらいながら発した言葉はティッシュでくぐもってしまったけれど、比呂士ははっきりと答えてくれた。
「当然です」
滲んだ涙が、ポロリと指に落ちる。
「ごめん、なさいっ……!」
何を謝っているのか自分の中でも曖昧だったけれど、まっすぐな気持ちであることは確かだった。
ゴシゴシ頬を擦っていると、比呂士はふっと神妙な面持ちになって目を伏せる。
「こちらこそ、申し訳ありません。思いを伝えるためとはいえ、さんに手を上げてしまいました。私に愛想を尽かしたとしても仕方ありませんね」
「そんなことない!」
いきなり大声を出して縋り付いた私に、比呂士は少し驚いたらしかった。構わず、胸元に頭を寄せる。
顔が見えないのをいいことに、思いの丈を打ち明けた。
「こんなっ……ちゃんと叱ってくれるって、思ってなくて、びっくりしたけど……それって、本当に、男らしいって思うし……っ!」
比呂士が小さく息を吸ったのを、胸に触れている耳で感じる。
見上げると、安心したように目を細めていた。
「ありがとうございます。さんに気持ちが届いて嬉しいですよ」
「比呂士…………」
晴れやかなその笑顔に、私も頬が緩む。
でもひとつだけ、どうしても確認したいことがあった。
「……もう、怒ってない?」
「ええ、怒っていませんよ」
「あのね、比呂士、私、本当に……反省してるから……ごめんなさい……」
「わかっています。反省したのならいいんですよ」
比呂士が私の背中に腕を回す。
ゆっくりと擦る手つきは、たまらなく優しかった。
<あとがき>
なかなか素直に謝れないけど、本来は真面目で、自分が悪いこともわかっている子。そういうイメージです。
きっと、やらかしておきながら罪悪感を抱くタイプなので、お仕置きでちゃんと反省するほうがスッキリするんじゃないかと思います。
良い子じゃなきゃ、柳生とは付き合いませんよねぇ。
なんだか最近書くお話でキーちゃんがやたらと飲み物飲んでてすみません。間ができるとつい何か飲みたくなりませんか?
18.06.04 UP