正直は最良の策

柳蓮二

9月17日(水)
デフォルト名:林 綾子



 お茶当番は重いから嫌い。
 そう愚痴る人もいるけれど、私はそれほどいやじゃなかった。
 作業はとても簡単なのだ。水出しの麦茶パックを放り込んで、製氷機の氷と、水を入れるだけでいい。
 掃除や洗濯の当番よりも、仕事時間がだいぶ短く済む。
 辛い部分を挙げるなら、共用製氷機が部室棟2階にあることくらいだろうか。
 他の人達がぼやくように、6リットルのウォータージャグを持ってこの階段はきつい。今日は左手にファイルを抱えているから尚更だった。
 ジャグだけ先に運べば楽なんだろうけど、まとめてベンチに持っていきたいのだ。
 不安定な格好で、階段を下っていく。

 ずるりと、重ねたファイルの一部が滑った。左手に気を取られた瞬間、反対の手が疎かになる。
「ひゃっ!」
 ガンゴンガンと騒がしい音を立てながら、ジャグが階段を転がり落ちていく。
 守ろうとしたファイルも結局は数冊が落下して、飛び散ったお茶であちこちに濡れ染みができた。
 もう、ついてない。
 重い息を吐いてから、のんびりしている暇はないということに気付き、残り数段を駆け下りる。
 面倒がらず、ファイルを置いてから来ればよかったのに。余計に手間が増えちゃった。お茶は全部こぼれたわけじゃないけれど、注ぎ口が砂埃で汚れているから、きちんと洗って作り直したほうがいいな。濡れた床も拭いておかないと。
 頭の中で手順を巡らせながらジャグを拾い上げ、そして愕然とした。

 側面が、へこんでいる。
 急激に心臓が早鐘のように鳴りだす。
 ただお茶をこぼしだけじゃなく、まさか本体が壊れてしまうなんて。
 おまけに、三脚スタンドの接合部までグラグラだ。一部が割れてしまったんだろう。
 そこまでがわかったあと、思考が停止する。
 私はしばらくの間、呆けたようにジャグを眺めることしかできなかった。

 また同じような失敗をしてしまった。
 パソコンのときは故障こそしなかったけれど、それでもあんなに怒られたというのに。
 今度は本当に壊しているのだ。
 蓮二にはとても言えない。

 額に滲んだ汗を手の甲で拭いつつ、どうしたものかと頭を捻る。
 壊したことを言えないなら、こっそり直すしかない。
 文具箱に接着剤が入っていた気がする。
 それでくっつけさえすれば、どうにかなるんじゃないか。
 期待をかけて部室へ急いだ。


 手に付いた糊は、洗い流してもそうそう取れなかった。
 ベタベタと貼り付く指先をいじりながら、コート脇に突っ立つ。
 脚の部品をつけることはできても、へこみは直せない。
 その面を隠すように置いたジャグを横目で見る。
 タオルで巻いたり、物を立て掛けたりして覆いたかったのだけど、不自然になってしまう気がして、やめた。
 誰かが近づくたびにハラハラして、これじゃ心臓が壊れそうだ。
「やりぃ!」
 大技を見事に決めた丸井先輩が、綺麗なウインクをしてみせた。
 そのまま軽やかに、こっちへやってくる。
 いや、違った。先輩の目的はその隣、お茶の入ったジャグだった。
 勢いよく取っ手を弾いた瞬間、カクンと三脚が折れ曲がる。
 当然だ。接着剤でつけただけなのだから。
 決して元通りにできたわけではなかったのだ。
 あっ、と声を上げるより早く、丸井先輩は持ち前の運動神経で本体を支えた。
「おっと、危ね! ……ん、壊れちまってんのか?」
 一目で異変に気付いた丸井先輩が、折れ曲がった三脚を元に戻そうと触る。
 傍にいた幸村部長、そして蓮二も同様に、破損部を注意深く見ている。
 自分の判断の遅さを悔やんだ。
 私がお茶を注いで丸井先輩に渡せば、こうはならなかったかもしれないのに。
 後悔の念と焦りが一気にせり上がってきた。

「今日の担当はお前だな?」
 冷ややかな視線と共に、蓮二の言葉が降りかかる。
「っ、……えっ…………と……」
 声に仕草に、明らかな動揺が現れているのが自分自身でわかった。
 先輩たち三人は、私が何かしたんだってもう気付いてしまっただろう。
「……んじゃ、俺は練習に戻るぜ」
 丸井先輩が空気を読んだように立ち去る。
 それを見届けた蓮二が、幸村部長に耳打ちした。
 何を言ったのか聞き取れなかったけれど、部長は「わかった、構わないよ」と返した。
 どんなことを尋ねればその返事になるのか考えていたら、答えが見つかるより先に蓮二が向き直る。
、部室で話そう」
 蓮二は返事を聞かずにスタスタと歩きだした。
 慌てて、その後に続く。
 私がきちんとついて来ているかを確認するように、蓮二は時折振り返る。
 その眼差しはいつになく鋭かった。

 扉の前で、先に中へ入るよう背中を押される。
 カチャリという響きに後ろを見ると、それは鍵を閉める音だった。
 なぜだろうと疑問に思う間もなく、蓮二からの質問が飛ぶ。
「お前が持ち出す前から既に壊れていたのか?」
 口を開けても、喉が張り付いたかのように言葉が出ない。たまらず視線を落としたけれど、蓮二が引き下がるわけもなかった。
、答えるんだ」
「…………、壊れて、なかった……」
 急き立てられ、やっとのことで返事をするも、蓮二は矢継ぎ早に尋ねてくる。
「ならばお前は、壊れた原因を知っているということだろうか?」
 なんと答えるのが正解なんだろう。
 知っていると言えば、次はその内容を聞かれる。
 知らないと言えば、嘘をつくことになる。
 どちらも言えない。だから、答えられない。
 俯いたまま、スカートを強く握りしめる。

 私が押し黙ったのを見て、蓮二が静かに口を開く。
「側面の傷、破損の角度を見る限り、高い位置から落下したものと推測されるが、違うか?」
 おそろしく冷静な分析だった。
 完全に言い当てられ、ビクンと体が揺れる。顔が上げられない。
「自分の言葉で説明しろ、
 蓮二にそう迫られ、震える唇を開く。
「……用意した、あとに、部室棟の階段で……落として、……こぼしちゃって……そ、掃除はちゃんと、したんだけど……」
「怪我はしていないか?」
 首を縦に振ると、蓮二は続けて言う。
「ファイルが濡れていたのはそのせい、というわけだな。大方、荷物で塞がった片手に意識が向いた結果、注意が散漫になった、といったところだろう」
 次々に看破されて、その度に心臓が跳ね上がる。
 推理小説の犯人にでもなった気分だった。
「横着をせず、両手で運んでいれば防げたかもしれないな。以後注意することだ」
 何もかもが蓮二の言う通りで、言い訳なんてできるはずもない。
「……ごめんなさい…………」

 改めて名前を呼ばれ、視線を上げる。
 そこには蓮二の厳しい目があった。
「先日同じことを注意したはずだが」
 思い当たるのはこの前の、パソコンのことだった。
 あのときは何て言われたんだっけ……?
 意味するところがわからなくて、頭がこんがらがってくる。
「充分な反省ができていなかったようだな。今一度、灸を据えるとしよう」
 グイッと腕を引っ張られ、お尻を叩かれると直感した。

 そのために鍵を閉めたんだ。
 いやだ、こんなところで。
 ううんそれよりも、また蓮二を怒らせてしまった。
 もう許してくれないんじゃないだろうか。
 目が回るような絶望感に襲われながら、なすすべもなく膝に乗せられた。
 頭は拒絶しているのに体は全然動いてくれない。
 
 当然のようにスカートが捲られる。
 しかも、それだけに留まらなかった。
「今日は容赦しない」
 蓮二の手が下着にかかり、スッと腿まで下ろされる。
「ひゃ……や、蓮二っ……!」
 まさかお尻を出されるなんて。
 一瞬だけ、恥ずかしさが全ての感情を上回る。
 だけども降ってきた平手に、すぐそれどころではなくなった。
 バチン! と肌を打つ音は、この前叩かれたときよりも高く鳴り響く。
「あっう……! ごめんな、さいっ……!」
 絶対にもう、蓮二を怒らせたりしないと決意したのに。
 容赦しないとまで、言われるなんて。
 目にはすでに涙が浮かんでいた。
 叱られてあんなに後悔したにもかかわらず、同じことを繰り返してしまった自分が、情けなくて、やるせない。
「ごめ、なさいぃっ……ひっ……く……」
 剥き出しのお尻を何度も打たれながら、心の中で省みる。
 備品を大切にする。そんなの基本中の基本。
 当たり前のこともちゃんとできないなんて、マネージャー失格だ。
 役立つどころか足手まといになってばかりで、きっとみんな迷惑に思ってる。
 零れた涙が頬を伝った。
 絶え間なく続く平手打ちで、お尻も胸の中も、どんどん痛くなる。
「ごっ、めなさっ……ごめっ……なさいっ……!」
 許されたい一心だった。
 とにかくひたすらに、ごめんなさいを繰り返す。
「うっ……くっ……ごめん……なさいっ……、壊し、ちゃってっ……ごめんなさっ……!」

「待て」
 不意に、手がピタリと止められた。
 突然の中断に、謝ることも忘れて口をつぐむ。
「今、何と言った?」
 蓮二の澄んだ声が響いたあと、部室は静寂に包まれた。
 間違ったことを言ってしまったのかと、首を竦める。
 小さく「ごめんなさい」と漏らすことしかできない。
「お前は何に対して謝罪しているのか、と聞いたんだ」
 もう一度、私にわかるように蓮二が言い直して、責められているのではないとようやく気付く。
「……備品っ……、こわし、ちゃったから……それで……」
 それで怒られている。そのはずだった。
 しかし蓮二はそうじゃない、と告げる。
、思い違いだ。壊してしまったこと自体は仕方がない。故意ではないのだろうからな」
 それじゃあ蓮二は、なんで怒ってるの……?
 問いかけずとも、疑問を抱いたことは見抜かれているらしかった。「だが」と蓮二が続ける。
「お前は事実を隠蔽しようとした。その不誠実な対応を叱っているんだ」

 ああ、やっと理解した。
 パソコンだってウォータージャグだって、壊しただけで怒られたりはしない。
 正直に言えなかったことを、叱られていたんだ。
 それがわかると、更なる反省の気持ちが湧いてくる。さっきまでとは違う思いのごめんなさいがこぼれ出た。
「バランスを崩して足の上に落ちでもしたらどうする。誰かが怪我をしていたかもしれないんだぞ」
 また平手を振り下ろされ、背中が反り返る。
「あぅっ……!」
「仮にお前が壊したのでなかったとしても、異常に気付いたらすぐ報告すべきだろう」
 お尻の真ん中をしっかりと打ち据えられる。
 同じところを二度三度と叩かれ、止まりかけていた涙がまた流れ落ちた。
「情報を得ることで防げる事故もある。目の前のことだけでなく、多方面に熟慮して行動しろ。いいな」
「っ、はいっ……! ごめんな、さいっ……!」
 喉の苦しさを抑えて、はっきりと蓮二に届くように声を上げる。
 よし、という一言とともに服が戻された。

 体を起こして蓮二の横に座り、長い息を吐く。
 呼吸を整えながら目元を擦っていると、蓮二は手伝うように背中を撫でてくれた。
「ところで、お前は水を入れたあと氷を取りに行っているのか?」
「うん、そう……」
 また何か叱られるのかと身構えながら、おそるおそる答える。
 しかし蓮二は穏やかに目を細めた。
「先に氷だけを入れてきて、戻ってから水を足せば、6リットルものジャグを抱えて階段を上り下りせず済むのではないか?」
「あ、そうか……」
 目からウロコだった。
 そんな簡単なことに気付かなかったなんて。
 なるほどと納得していたら、蓮二が少し笑った。
「精市や丸井にも心配をかけてしまったな。事情を説明し、謝罪するとしよう」
「はいっ……!」
 いい返事だ、と蓮二に抱き寄せられる。
 だから私もぎゅっとくっついて、もう一回深呼吸をした。




<あとがき>
 前回(初回)のお仕置きでは、隠していたことそのものを怒られてたとは考えが及んでなさそうなので、またすぐに似たようなことをして怒らせた感じです。
 この度ようやく、ああ蓮二は隠し事をしてたことを怒ってたんだな、というのがわかると。
 前回のお仕置きが全然活きてねぇじゃねーか、という二人であります。
 
 とにかくちゃん怒られたらビビっちゃってすぐ謝るのはいいけれど、許してほしい一心で、自分が何で叱られてるのかは二の次になっちゃってるのかも。
 だから言葉や態度では本当に反省してる感じなんだけど(本人もしてるつもりなんだけど)、柳の説教は聞いているようで聞いていないのかもしれない。おいおい。
 その辺にちょっとした幼さがあるといいね。素直に謝るのは大変良いのだけどね。
 で、一応ここで「隠したから怒られるんだ」ということがわかったというお話でした。
 
 製氷機の場所はでっちあげですが、部室等のなんとなくの配置はファンブックを参考にしております。


18.08.09 UP