淑女の心得
柳生比呂士9月18日(木)
デフォルト名:進藤 由麻
かれこれ何分くらいこうしているだろうか。
「言えるまで終わりませんよ」
私は比呂士の膝で粘り続けていた。
当然その間、お尻は一定のペースで叩かれ続けている。
はじまりは、比呂士の一言からだった。
「ごめんなさい、でしょう」
私の嫌う台詞を比呂士が放った。
だから、それができるなら最初からこんな空気になってないってのよ!
叫びたくてもそうできない言葉を、頭の中でリピートする。
「またお仕置きをしなくてはなりませんか」
それを言えば、大人しく従うとでも思ってるの、馬鹿にして。
ビクリと体が反応してしまったことは確かで、それがまた悔しかった。
口は開かず、比呂士に引かれるまま膝の上へ。
だって抵抗したら、まるで怖がってるみたいじゃない。
別に比呂士が怒ったって動じないわよ。
平然と振る舞いたくて、表情を変えてなんかやらなかった。
それからはひたすら、我慢の時間。
お尻を叩かれて謝るなんて、絶対いやだ。してたまるか。
思えば、この前はどうしてこんなものに納得できたのだろう。
冷静になったら、恥ずかしい以外の何物でもない。
びっくりして泣いてしまったのは不可抗力だ。
ただ混乱していただけなのだと、今ならわかる。
その証拠に、今日は涙なんか流していないのだから。
比呂士は腕を振り上げ、そして平手を落とす。
飽き飽きするほど繰り返される単調な打擲音を聞きながら、掃除の行き届いた、埃ひとつない床を眺めた。
叩かれたはずみで体が揺れるたびに、比呂士の座るデスクチェアがキィと鳴る。
「いつまで意地を張るのでしょうか」
私が謝れないのをわかって言ってるんだ。
比呂士の言葉がいちいち癇に障る。
いいや、言えないってわけじゃない。
ひとつひとつの音は、ただの平仮名だ。
考えるからいけないのよ。
心なんか込めずに、音だけ発すればいい。
言うわよ。言ってやる。
「謝ればいいんでしょ! 謝ればっ! ごめんなさいっ!」
当てつけがましく投げやりに、がなりたてる。
比呂士が怒りだしてから一言も出さなかった声を久しぶりに上げた。
あんたが言えって言うから、仕方なく言っただけよ。
納得したわけじゃない。
比呂士が軽く息をつくのが聞こえた。
「これからはもっと素直に謝れるようになりましょうね。あと10回叩きます」
謝ったのに、まだ叩くって。
もうやだ、バカ、比呂士の鬼。
滲んだ涙を瞬きで散らし、頭の中で数をかぞえた。
バカ。鬼。悪魔。鬼畜。外道。眼鏡。バカ。……8、9、10。
10発目が終わると同時に、手を振り払い膝から逃げる。
長い長いお仕置きでさんざん叩かれたお尻を浮かせるように、あひる座りになって睨み上げた。
椅子の比呂士は腕と足を組み、私をじっと見つめ返す。
居心地が悪くなって目を逸らすが、比呂士はこっちを見続けているようだった。
「……反省が足りないようですね」
やがて比呂士は、溜息をついて立ち上がった。
またひっぱたかれるのかと体を強張らせたけれど、比呂士は何を思ったか、本を手に取る。
「比呂士……?」
背中に呼びかけても一切振り向かない。
そのまま再び腰掛けて読書を始めた。
どういうつもりなのか理解が及ばず、私はちょっとの間ぼんやりと比呂士を見た。
しばらく後頭部を眺めてから、どうやら無視されているらしい、ということに気がついた。
……後ろめたく思う必要はない。
お仕置きは受けた。
謝りもした。
相応の罰を受けた以上、文句は言わせない。
それなのに、お仕置きは終わったというのに、なんでモヤモヤしなくちゃいけないの。
私の視線は感じているはず。
でも比呂士は、私の存在など忘れたかのように本を捲る。
心臓が変にドキドキ鳴っていた。
比呂士が不機嫌になったって、関係ないと思いたいのに。
「…………比呂士ってば……」
「何ですか?」
答えてくれたことに安堵したものの、その声が余りに冷たくて言葉を失う。
怒ってるんだ。
私がちゃんと、反省しなかったから。
「……えっ、と…………」
比呂士は振り返ることなくページを捲る。
チラリと見えた右手の指が、薄っすら赤い。
思い出したように、お尻がジン、と痛くなった。
「読書の妨げになるので、用がないのなら話しかけないでください」
突き放すような言葉が、重く響く。
さっきまで鋭い目を嫌というほど向けてきたのに、今は一瞥もくれない。
もう、こんなの嫌。
どうしろっていうのよ。
私、謝ったじゃない。
……あんなもの謝ったうちに入らない、と比呂士なら言いそうだった。
改めて謝るべきだと、わかってはいた。でも勇気が出ない。
そう、勇気がいるのだ。
あんなに叩かれても言えないものを、普通に口にできるはずもない。
どうにか出てきたのは、ひどく遠回りな表現だった。
「もう、終わったんじゃないの……?」
「何がでしょう?」
「……お仕置き、とか、その…………」
「そうですね」
「じゃあ、なんで……」
「一体何をおっしゃりたいのでしょうか」
言えることがなくなって黙り込むと、比呂士も何も言わなくなった。
ペラ、と紙の捲られる音が耳につく。
「繰り返すようですが、読書の邪魔です」
かけられた声は、至極冷静だった。
比呂士の視線は変わらず本に注がれている。
読んでいる本をひったくって投げ捨ててやりたい。
焦燥感と腹立たしさで、胸のあたりがグルグルする。
このまま帰ってやろうか、とも思った。
しかし、自分の中の理性が制止する。
ここでこの場を離れたら比呂士は二度と許してくれないような、そんな気がしていた。
のそりと腰を浮かし、比呂士の横に立つ。
「ねぇ……」
一向に取り合ってくれない。
まるで声が届いていないかのように、比呂士は静かに本を読む。
「もう、わかったから……」
浮かんだ涙を飲み込もうとすると、鼻の奥が痛くなった。
喉が締め付けられるようで苦しい。
やっぱり言わなきゃ。
中途半端な言葉で誤魔化してもダメだ。
どんなに言いにくくても、きっちり謝らない限り許されない。
気持ちを落ち着けるようにゆっくり息を吸って、口を開く。
「……ご、めんなさ……ぃ……」
意を決して出したはずの声は、あまりにもか細く情けなかった。
「……比呂士…ごめんなさ………っく……ごめんなさい……」
「……反省しましたか?」
比呂士は本に視線を落としたまま口を開いた。
「………っく……したっ……ちゃんと、反省したからぁっ……」
やっと返ってきた比呂士の声で、余計に涙が流れだした。
手で拭いきれない滴が、顎を伝って胸元にポタポタと落ちていく。
「さん」
比呂士はようやく本を閉じてこっちに目を向けた。
「謝るようには言いましたが、ただ謝りさえすればいいということではありません。心から謝っているかどうかは見ればわかります」
すすり上げながらも、比呂士を懸命に見つめる。
「相手に誠意が伝わらなければ、謝罪の意味がありませんよ。わかりましたね?」
比呂士の目を見ながら、しっかりとうなずく。
すると、いいでしょう、と比呂士は表情を緩めた。
「……お仕置き、は?」
「反省したのでしょう? ならば今日はおしまいですよ」
てっきり叩かれると思ったのに。
私の心中を察したのか、比呂士は穏やかに微笑む。
「きちんと自分から謝れましたね。感心です」
そう言って、猫でもさわるみたいに私の髪の毛を撫でた。
<あとがき>
たぶんね、柳生は柳生で、読んでた本の1行も頭に入ってない。
結局お仕置き原因はわからずじまいですが、しでかしたことの問題じゃないんです。態度の問題です。
そういうことですね。
決して、考えてなかったとかじゃありませんよ。
結局この二人、真面目カップルなんだと思います。
18.08.09 UP