君との時間を

仁王雅治

10月5日(日)
デフォルト名:堀川 紗英



 日曜日のシネコンは大盛況だった。
 目当ての映画は話題作だったこともあり、できれば空いている日を選びたかったものだが、部活がある身としては休日しか予定を入れられない。
 自分だけならレイトショーでもいいが、二人だとそうもいかない。映画が見たいというより一緒に出掛けたいだけなのだから、鑑賞して即解散となるのは無意味である。
 ともあれ今日は作品に満足できたし、も楽しんでいたようで何よりだ。
 彼女の家に寄り、残ったポップコーンをつまみながら仁王はふと思った。
「宿題、お前さんとこでも出たじゃろ。進んどるんか?」
 先日出された数学問題集からの宿題は、今度こそ中間考査の範囲になる。
 前回の小テストのような結果ではまずいだろう。
 の成績を知ってから、勉強状況が密かに気になっていた。
「数学の? いいよ別にアレは」
「中間の対策をせんでええんかと思ってな」
 途端にが不機嫌顔になった。
「まだまだ先でしょ?」
 楽しい空気をしらけさせた、と言わんばかりにジロッと仁王を睨む。
 の主張通り、試験週間は来週、テストはその翌週だ。
 だが、試験週間に入ってしまったら仁王だってに付きっきりというわけにはいかない。
 だから早めにテスト対策をしてやろうと考えているのである。
「これまで試験がどうとか、何も言わなかったじゃん」
「赤点常連とは知らんかったからの」
「マジで家庭教師やろうと思ってる? いいんだって高得点狙ってないから」
 そう言ってはポップコーンを口に運ぶ。
「小テストのときはプリントを要求しとったじゃろ」
「やめて。雅治と勉強の話なんかしたくない」
 の強い言葉に、仁王は口を噤む。
 こんなにもはっきりとした拒絶をされるとは思わなかった。
 最初に『お仕置き』をしたのもあの日、小テストの結果が返ってきたときだ。拒否反応はそのせいかもしれない。
 特段変わった様子を見せないと思っていたが、それは自分に都合のいい認識をしていただけで、本当は引いていたのだろうか。
 そっぽを向いてポップコーンを頬張るの顔を横から覗き込む。
「俺から教わるんがそんなに嫌か」
 そうだ、と言われることを覚悟する。質問しておいて何だが、答えを聞きたくない。
 いささか緊張しながら返事を待つ。
 は目を合わせないままボソリと漏らした。
「……勉強に時間使うの、もったいないと思わないの? 一緒にいるのに」
 なるほど。
 これには喜んでいいだろう。
 勉強を口実に会うような淡い関係ならいざ知らず、付き合っている二人がわざわざ会って試験対策というのもつまらない、という話だ。大いに理解できる。
 にしては素直に気持ちを打ち明けてくれたほうだろう。
 嫌われたというのは取り越し苦労だったとわかり、フッと安堵の息を吐いた。
 自分もそうだが、もあまり胸中を口にするほうではない。本音を探るのは骨が折れる。
 知らずしらず体に力が入っていたことに気づき、仁王は一度伸びをした。

 頭の後ろで手を組み、さてどうするかと考えを巡らす。
 無理やり宿題をさせるのは可哀想だが、放っておいて十分な勉強をしそうにもない。
「そうは言うてものぅ。赤点は取りたくないじゃろ」
「やめてって言ってんの!」
 短気を起こしたが、手にしていたポップコーンを一粒投げてきた。
 あぐらをかいた仁王の膝にポトリと落ちる。
 こういう手に出たということは、言い返すことがなくなったのだろう。
 黙って拾い、ポイと口に放り込んだ。
 それだけでは満足できなかったのか、近くのものを手あたり次第に投げてきた。
 クッションふたつ、ポケットティッシュ、ポーチ。体をかすめて壁にぶつかっては床に溜まっていく。
 最後に投げられたノートが見事、仁王の胸元に当たった。
 がしまった、という顔をする。
 勢いにまかせて投げたが、当てるつもりはなかったのだろう。
 多少は痛かったが、どうということはない。
 幼いころの弟が、逆上して物を投げ散らかしていたのを思い出して小さく笑った。
「本当に子どもじゃのう、お前さん」
「……何? 怒ったの?」
「そりゃ、物を投げられたら怒りもするぜよ」
 だって、苦手な数学は勉強したほうがいいとわかっているだろう。
 しかし、勉強しなくてはいけないというストレスと、やる気になれないことへの苛立ちで、どうにもむしゃくしゃしているらしかった。
 やはりを冷静にさせるには、お仕置きという儀式が必要そうだ。
 怒ったわけではなかったが、まぁほどほどに、少しだけ鞭を与えるか。
 心を決め、ノートを脇へ置いてに体を向ける。
「人に物を投げるのはいかんのぅ」
 がビクリと肩を震わせた。
 これじゃ本当に子どもを叱っているのと変わらない。
 そういったある種のあどけなさが、の可愛いところだ。

 腰を浮かせての腕を引っ張ると、あっけなく膝に倒れこんできた。
 すぐさま上半身を起こそうとするのを押さえ、胡座の脚の上で腰を抱える。
「ちょっ……やだっ……」
 体勢から、お仕置きされると察したらしい。
 勉強のことも言いたいが、物を投げたのはよくない。
 流石にこれに関しては、怒られても仕方ないとも思っているだろう。
 少しだけ厳しくするつもりで、今回は服の上からでは済ませないことにする。
 スカートを捲ると、は甲高い悲鳴を上げて手を伸ばしてきた。
「なになに、なにすんのっ!? やめてよちょっとっ!!」
 これには仁王も予想外だった。
 当然、衣服を脱がせるというのは尋常なことではない。
 だががこんなにも取り乱すとは驚きだ。
 いつもなら、例えばいい雰囲気の中であれば、体に触れても全く抵抗する素振りは見せない。それどころか蠱惑的な笑みすら浮かべる奴である。にもかかわらず、今はこの反応だ。
 お仕置きというものがお仕置きとして認識されていることの証左だろう。
 の中できちんと線引きされているわけだ。
 それは結構なことだった。こちらだってそんなつもりで脱がせるのではない。
 下着に手をかけようとするが、の手が邪魔するわ体を捩るわで、とてもそこまでできそうになかった。
 仁王はひとつ溜息をついて口を開く。
「素朴な疑問なんじゃが」
 唐突に投げかけると、が動きを止めた。
「問題集とプリント、どこに違いがあるんじゃろうな。見せてほしいのはプリントだけ、か。なるほどのぅ」
 は体をこわばらせて固まる。
 大変なことがバレた、とでも思っているかもしれない。
 おおかた、問題集の課題は付属の解答冊子を写して出しているのだろう。
 それで苦手が克服できるはずもない。
 堂々と言わないのは、身につかないと知りつつやっているからか。
 ならばそこを責めるのは有効かもしれない。
 せめて宿題だけでもまともにやっていれば多少は違うはずだ。
 プラスアルファの勉強はそれからでいい。

 が怯んだ隙に、一つ平手を落とした。
「ひっ!」
 下着を下すのは諦めてスカートを捲ったのみにしたが、それでも前よりは威力があるらしい。
 パシンと鳴る音は高く、服の上から叩いたときに比べて手ごたえがあった。
 続いて、間隔を空けながらお仕置きらしく尻を打っていく。
 いつまで続けるか。それは簡単だ。
 がごめんなさいを言えば終わりでいい。

 はて、自分はこんなにも親切だったか。
 保護者の真似事をするなんて、奇妙な庇護欲を掻き立てられたものだ。
 幸村の話を聞いてからというもの、柄にもなく感化されているらしい。
 あの場にいた他の三組に比べて、仁王たちはどう考えても不真面目な部類だ。
 に指摘されるまでもなく、こんなことを小うるさく言うタチではない。
 どうもあいつらに毒されている。
「あぅっ……」
 黙って耐えていたが声を上げた。多少効いてきたようだ。
「なんて言うんじゃ、
 頃合いかと思って一度休止し問いかけるが、はまた押し黙った。
 謝れば終わる気でいるのに、これをどう伝えればいいのか。
 ポリポリと耳を掻き、再び左手を振り上げる。
「うっあ……!」
 パシンパシンと響く音に合わせるように、の肩が跳ね上がる。
 脚の付け根あたりの、下着に覆われていない肌が薄っすらとピンク色に変わっているのが見えた。

 の声に、嗚咽が混じりだしている。
 仁王は叩く手を止めた。
 叱られるとすぐに泣いてしまうところがあると知ったのは、ここ最近になってからだ。
 頭を撫でそうになるのを、ぐっと堪える。
 なんだか、ここで撫でると軸がぶれるようで良くない気がした。
 代わりに言葉をへ投げかける。
「まだごめんなさいが言えんのか」
「っ……ひっ……く…………」
 問いかけても、は声を詰まらせて泣くばかりだ。

 この意地っ張りを謝らせることなど、自分にはできないように思えてきた。
 反省しているか反省していないかといえば、おそらくしている。
 それは態度から充分にわかる。
 ならば、自分が悪くないと思ったらそのように言うだろう。
 口数が減った時点で、自覚があるというわけだ。
 だいたい納得していなかったら、いくら力で押さえつけようとしたところで大人しく膝の上に横たわってはいない。

 ダメ押しに再度、尻を打つ。
「あぁぅっ!」
 が高い声を上げる。ごめんなさいの一言を期待して少しだけ待ったが、言い出す気配はない。
 左手を振りかぶって、強めの一発を落とした。同じ威力で二度、三度叩く。
「ぅ、あああぁんっ……うっく、ああぁぁっ……」
 やれやれ、本格的に泣き出してしまった。
 今回もごめんなさいは聞けそうにない。
 結局のところ根負けだ。自分が何かを言って終わりにしよう。
 ええと、なんだったか。
 そもそもは勉強をさせようと思ったのだったが、直接のお仕置き原因は物を投げたことだ。
 さほど繋がりがない事項が並び立っているせいで、話がまとまりそうにない。
 もういいか。整理して言い聞かせずとも、は自分でわかっているだろう。

 捲り上げていたスカートを戻して体を起こしてやると、勢いよく胸に飛び込んでくる。
 頭を撫でても、は嫌がらなかった。
 泣きじゃくる背中を抱きしめる。
 自分の前でこれほど感情を露わにしてくれるとは光栄なことだ。
 を膝に乗せている状態だと何も言えなかったが、今になって言葉が浮かんできた。
 向かい合いになって抱きしめたまま口を開く。顔が見えないのは仁王にとっても都合が良かった。
「数学は教えてやるきに、俺を利用しときんしゃい」
「…っく………うん」
「時間がもったいないと言うとったが、逆に考えれば、勉強の間も一緒におれるということじゃ」
「……そっか」
「一石二鳥ナリ」
 どうにか納得してくれただろうか。
 こういうところはわりに素直なのだ。
 希望的観測だが、なんだかんだでも、彼氏と勉強するというシチュエーションに憧れてはいたんじゃないだろうか。
 そうでなければ先日のように、今さら突然勉強の相談に来たりしない。
 とはいえ、ここまでのスパルタは望んでいないか。
 素直でないばっかりに、もとんだ痛い目に遭ったものだ。
 恨むなら余計なことを唆した幸村を恨んでくれ、と思いながらの後頭部を指先で突っつく。
「宿題も、写すんはやめると約束じゃな」
 の返事はない。
 体を離して顔を覗き込むと、不満げに仁王を見上げた。赤くなった大きな目で睨みつけている。普段のらしい表情だ。
 涙に濡れる頬を撫でて微笑みかけると、気乗りがしない風ではあるがコクリと頷いた。

 それからは、しばらく考え込むようにして宙を眺めた。
 何かがあるのかと振り返ってみたが、そうではないようだ。
 向き直って様子を見ていると、は静かに切り出した。
「雅治に聞いていいかわかんないけど」
 そこまで言って静止した。
 どうやら、言うべきか言わざるべきか悩んでいるらしい。
 は隠し事ができるタイプじゃない。
 だからこういう物言いをするときはすぐに喋ってしまうだろうと見守っていたが、かつてないほど踏み留まっていた。
「……林ちゃんってさ」
 長考の末に出てきた名前は意外なものだった。
 林綾子。二年生のマネージャーだ。柳の彼女でもある。
「ひょっとして、柳からお仕置きされてる?」
 ずばりそのものの質問に、仁王は内心驚いた。そして同時に焦りを覚える。
 ご明察、と答えるわけにはいかなかった。
 断言できるほど知っているのは何故か、という話になるし、そうすれば自分のことも奴らに知られていると連想するかもしれない。
 事実そうなのだから言い逃れはできないが、世の中には言わないほうがいいこともある。
「どうじゃろうな。あいつらなら、ないとは言い切れんのう」
 この程度に濁しておけば充分だろう。
 嘘という嘘はついていない。
「なんでそう思ったんじゃ?」
「それがさ、この前部室に入ろうとしたとき、柳が鍵を開けて出てきたんだよね」
 がポツポツと、言葉を探すようにして語る。
「中にいた林ちゃんは泣いた後って感じで。まぁそれは珍しいことじゃないんだけど。で、こう、スカートとか直してて。あとはまぁ、なんていうか……勘?」
 による説明が不完全であることを加味しても、決定的な情報があったわけではなさそうだ。
 自分もされたから、というのは大いにあるとはいえ、それだけの事象から推察したのだとすればなかなか鋭い。
 女の勘、恐るべしだ。
「ほう。それはあり得るかもしれんな。それで?」
「それで、って別に、それだけなんだけど」
 口止めをしてくるわけでもない。
 他人に言ったりしないだろうと、信頼されているようだ。
 無論そこは忠義立てて、自ら言いふらすつもりはない。
 もっとも、既に知られているものはどうしようもないが。
 せめて彼女の親友には気取られることのないよう配慮してやりたいものだ。
「ふーん。やっぱそうなんだ。柳に抗議してやろっと。先輩として林ちゃんを庇ってあげなきゃね」
 仁王からは何も情報を付加していないのであるが、は勝手に確信を得たらしい。
 自分のことは棚に上げて、随分と楽しそうである。いらないことを言ってボロを出さなければいいのだが。
 クスクスと、がいつも通りの笑顔を見せる。
 ひとつ違うことといえば、膝に座ったままべったり密着してくることだ。
 これもお仕置きの効果だろうか。
 何もなくても甘えてくれて構わないのに。
 指の背で頬を撫でてやると、はくすぐったそうにまた少し笑った。
 
 
 
 
<あとがき>
 仁王くんがぶっきらぼうなりにもやさしい、というのをどうにかして表したくて躍起になりました。
 まだ謝らせることができない!
 あとちょっと、あとちょっと……。
 
 
20.12.04 UP