Secret -約束-

幸村精市

10月3日(金)・10月5日(日)
デフォルト名:安達 晴香



 お待ちかねの週末がやってきた。
 今週の日曜日にはデートが待っている。
 
 忙しいテニス部といえど、休みは設けられているのだ。
 第2、第4日曜日は他校との練習試合だそうだが、それも午前のみだし、第1、第3に至っては丸一日オフだ。
 それでもテニス部の全国大会が終わるまでは、自主練でなかなか会えない日々だった。
 精市が休みの日曜には一緒に出掛ける、というのを習慣にしたのはつい最近のことだ。
 明後日にはお昼を食べに行く約束をしている。
 そんな予定を当たり前に組めるという幸せを、噛み締めずにはいられない。
 何にしようか。精市は焼き魚が好きだと言うけれど、外食で魚料理はハードルが高い。
 たいていは私に合わせてカフェ系にしてくれるか、何でもあるファミレスにするかになる。
 今日にはお店を決めるだろう。
 心がはやるけれど、精市の部活が終わるのをもう少し待つ必要があった。
 メッセージが既読になっていないことを確認してから、最近インストールしたアプリを起動する。
 おかげさまで、一人遊びには慣れている。
 スマホさえあれば暇つぶしなんていくらでもできるのだ。

 数独は頭が鍛えられる、なんてネット記事を真に受けて早速ダウンロードしたのだが、これが普通におもしろい。
 クリアしたところで何の成果が得られるでもなく、ただひたすらに次の問題が表示されるだけなのだが、それだけに中毒性があるというか、やめどきがわからなくなる。
 三問目が佳境に差し掛かったころ、『終わったよ。すぐ行くね』とスマホ上部に通知が届いた。
 一度アプリを閉じて『了解』のスタンプだけ送信し、再び問題に取り組む。
 おまたせ、と精市がやってきたのをチラリと見てから、画面に目を移してお疲れ様と返事をした。
「待ったかい?」
「ううん、全然。行こっか」
 地面に置いていた鞄を肩にかける。
 スマホに目を向けながら歩きだした。
「最近よく夢中になってるけど、何をしてるんだい?」
 私がいつまでもスマホを持ったままだからか、精市が切り出した。
「いわゆるナンプレってやつ。パズルゲームだよ」
 紹介するように、少しだけ画面を精市に向ける。
 見たことあるでしょ? と尋ねると頷いたが、やったことはないようだった。
「9かける9のマスがあるんだけど、縦列と横列と、それから3かける3に区切られたブロックの中で、1から9の数字を被らないように並べるんだけどね。絶対解ける問題になってて……あ、計算はいらないんだよ」
「へぇ、そういうルールなんだ」
 それほど興味がある風ではないが、きちんと話を聞いてくれるのが精市の律儀なところだ。
「パズルってね、インプットともアウトプットとも違う脳の領域を使うらしくて、頭の体操になるんだってさ。やってみたら結構ハマっちゃって」
「秀才のが言うんだから、きっと効果は確かなんだろうね」
 いやいや、と謙遜をしてみせてから、スマホに向き直る。
 考えるのに時間は必要だけど、タイムリミットがあるわけではないし、手が離せないというほどのゲームでもない。
 しかし、考えるのにじっと眺める必要はあって、ついつい夢中になってしまう。
 ただの時間つぶしだったはずが、今では寝る間も惜しんで解くほどに熱中してしまっていた。

 信号待ちで停止した隙に続きを入力していると、精市が覗き込んでくる。
、歩きながらだと危ないよ」
「うん、大丈夫」
 一旦は画面の電源を落とすが、歩きだしてから再びコソッと確認した。
「ずいぶん真剣だね。そんなに面白いのかい?」
「やりだすとね、これがなかなか……」
「歩いてるときは控えた方がいいよ」
「うん……」
 返事もそこそこに画面を見ながら、頭の中ではひたすらに数字を並べていた。
 1はここにあるから……2でもない……5? あ、いやいや5も違う……
「そのくらいにしておいたら? ちゃんと前見て」
「うん、見てるよ、平気」
 あっ間違えた。
 入力したマスに×印が表示される。
 7じゃないなら……

 ペシン、と軽い音が鳴る。
 お尻をはたかれたのだ。
、いい加減にしなよ。何度言わせるんだい?」
「ごめんごめん、あとちょっとだけ」
「口で言ってもわからないのかな」
 不穏な言葉にハッと顔を上げる。
 やばい。
 冗談かのような口ぶりでありながら、目はマジだ。
「ごめんなさい、今すぐやめます」
 背中に汗が滲むのを感じながら、急いでスマホを鞄へ戻した。
「一昨日、注意したばかりだけど」
 追いうちのような言葉に心臓がドキッと鳴る。
 注意、なんて生易しいものではなかったと思いますが。
 傘を差しながら精市に返信していただけであんなにも怒られたのだ。
 もう一度あの流れになるのは勘弁願いたい。
「歩きスマホ、よくしてるよね。この頃多いよ」
「そうかな……」
 今時スマホを見ない人なんていない、と言ってやりたいが、この状況でそう返すのは得策じゃないだろう。
「危ないから、もうしないこと」
 言葉を濁してあやふやにしようとしたのがバレたのか、精市はきっぱり言った。
 いい加減な返事を許さない態度に出られては、逃げ道などない。
 渋々……という空気を悟られぬよう、神妙に頷く。
「約束だよ。次は問答無用でお仕置きだからね」
「……はい、気をつけます」
 この場でひっ叩かれるような展開にならなかっただけ良い。
 口頭注意で済んだことにホッと安堵する。
 精市はフッと小さく笑って、私の左手を取った。
「明後日、どこに行きたい?」
「あ、それ私も聞こうと思ってた」
 やっぱり今日の話題は、これに決まりのようだった。

***

 日曜日当日、スマホを片手に待ち合わせ場所へ向かう。
 いつもなら精市が迎えに来てくれるが、今日行くお店はあまりに精市の家に近いということで、こっちに来てもらうのはさすがに遠慮した。
 一人なのをいいことに、画面を睨みながら歩く。
 信号待ちで長考している間に、ピヨピヨという音で青に変わったのがわかった。
 そのまま歩き出すと、すぐ横を何かがビュンッと通り過ぎる。
 びっくりして振り返ると、どうやら自転車だったようだ。
 あわや接触、という場面だったが、相手はそのまま走り去って行った。

 前に向き直ったとき、すでに到着している精市がこっちを見ているのに気付いてぎょっとする。
 今の、全部見られてしまっただろうか。
「精市、あの、早いね、まだ15分前……」
「もうしないって、約束しただろう」
 先手を打とうとしたけれど無駄だった。
 精市の厳しい声が、雑談を始めようとした私を一蹴する。
「違うんだよ、えっと、地図を確認しようと思って」
「危ないのは同じだよ」
 適当なことを言ってはぐらかそうとするも、通用しなかった。
 精市が私の左手を握る。恋人同士の甘やかな雰囲気はない。
「今度はお仕置きだって、言ったよね」
「その、精市……」
「俺の部屋へ行こう」
「えっ……ご飯は……」
「お仕置きが先だよ」
「ええぇ……?」
 精市の家に近いことが災いした。
 これはマジだ。
 お仕置きするから部屋に来いと、精市は言っているのだ。
 
 精市は踵を返し、いま通って来たばかりであろう道を歩き始める。
 そして、かろうじて私が急ぎ足にならないくらいの絶妙な歩幅で半歩先を行く。
 手は繋いでいるというより、ただ引かれているだけだった。
 真昼に近づいてきたせいか、焦る気持ちのせいか、急激に噴き出してきた汗が背中を流れ落ちる。
 今日の最高気温、何度だったっけ。
 もう少し薄手の上着にすればよかったかな。
 不安から逃れようとするかのように、どうでもいいことばかりが頭に浮かぶ。
 幸村家はすぐに見えてきた。
 あのお店本当に近いね、なんてことを平時なら言っただろうが、一言も返ってこなかったら怖すぎる。
 口に出す勇気はなかった。

 家の鍵を開けるためだろう、掴まれていた手が離れる。
 カチャッという軽い音とともに扉が開かれ、先に通された。
 私を後ろから押し込むように精市が入ってくる。
 内側から鍵をかけ直し、さっさと階段の方へ向かっていった。
「ま、待ってっ……靴が……」
 こんな形で精市の家に上がるつもりじゃなかったから、少し面倒な靴を履いてきてしまった。
 パンプスのストラップを外さなくてはならない。
 立ったままで脱ごうとするも、スナップボタンが固くて片手では取れそうもなかった。
 あきらめて一度鞄を置き、玄関に腰掛けて本格的にストラップへと手をかける。
 おろしたての、履きなれていない靴がなんだか空しい。
 秋口になったら出そうと楽しみにとっておいた靴だ。
 ようやく履ける季節になって、今日こそちょうどいいと思ったのだ。
 やっと脱げたパンプスから足を抜いて、玄関に上がる。
 待ちくたびれたように腕を組んでいた精市は、脱ぎ終わったのを見て二階へ向かっていく。
 私もその後にトボトボついていった。

「何度も言ったのに、全然聞いてくれないんだね。残念だよ」
 階段を上りながら精市が口を開く。
 ドキンと心臓が嫌な鳴り方をして、たまらず胸元を押さえた。
「ごめんなさい精市、本当に、その……」
 キィと小さく音を立ててドアが開かれる。
「もう本当に、絶対しないし、ちゃんとわかったからっ……」
 背中に向かって、すがるように声を上げると、精市は振り返り静かに言った。
「駄目だよ。次はお仕置きだって約束だっただろう」
 有無を言わせぬ厳しい眼差しを向けられる。
 じっと見つめられた目から、喉の奥、体の奥まで捉えられたようだった。
 言葉が出せなくなって、私の無駄な足掻きはそこで終わる。
 精市はさっさとベッドへ腰掛け、膝に手を置いた。
 もう少し何か……何か上手い謝罪ができたら……。

「ひっく……ぅ……」
 情けないことに、涙が出てきてしまった。
 お出かけ前に、私はなんとつまらないことで精市を怒らせてしまったんだろう。
 涙がこぼれるのにあわせて下を向くと、水滴となってポタリと落ちた。
 床を汚して悪いと思ったけれど、止まらない。
 頬へ流れた涙を手の甲で拭う。
 精市が小さく溜息をついて立ち上がった。
 そして私の前まで来て顔を覗き込むようにしてから、頭にポンと手を置いてきた。
 反射的に視線を上げる。
「お仕置き前から泣かれてしまうと気持ちが揺らぐけどね。これは俺にとっても約束だから。破るわけにはいかない」
 精市はそう言って僅かに表情を緩めたけれど、またすぐに引き締めた。

 ぐずる私の肩を抱いて、精市は改めてベッドに腰掛けた。
 お仕置きのためにわざわざ戻ってきたのだから、泣いたくらいで帳消しになるはずもない。
 抵抗したってしょうがないことは理解していた。
 膝へ横たわると空腹のおなかが圧迫されて、今にもグゥと鳴りそうだ。
 ひもじさも相まって、再び涙がこぼれる。
 鼻をすすりながら、指で目元を擦った。
 膝下まであるスカートを捲り上げられ、下着もおろされてしまった。
 心細くなって、小さく名を呼ぶ。
 すると精市もまた小さな声で「ん?」と応じた。
「ごめんな、さいっ……ぅっく……」
「……うん。何がいけなかったか、ならわかるよね」
 頭をふわっと撫でられる。
 きちんと反省していることは伝わったのだろう。
 だけど約束は約束だから、お仕置きはなくなったりしない。
 わかっていても、喉の奥の震えはおさまらなかった。

 パシンッとお尻に平手が打ち付けられ、お仕置きが始まった。
「あうっ……ごめんなさいっ……! あぁっ……!」
 軽いお仕置きになることを期待したものの、残念ながらそんな様子はない。
 しっかりバシンと打たれ、足が跳ね上がる。
 せめてもの反省の証としてじっと耐えようとしても、体が言うことを聞いてくれなかった。
 一発落とされるたびに、頭が反るか、背中がびくつくか、足が動くか、あるいは精市の服を掴んで引っ張るか、とにかくおとなしくしていられない。
 いくら私がジタバタしようとも精市は冷静だった。
 私の腰を一度押さえたきり抱え直すこともなく、一定の調子を保ったままひとつひとつ平手を落とす。
 静かでゆっくりとした空気がかえって重みを感じさせた。

 打たれた箇所が熱を帯びていくのがわかる。
 痛みがくっきりしてくるのを感じたのも束の間、次は反対側のお尻を叩かれる。
 右、そして左と規則的に与えられる刺激にも体は慣れることなく、常に新鮮な痛みがやってきた。
 スッと手が上がり、そして振り下ろされるというタイミングを覚えてくると、条件付けをされたかのごとく体がすくむ。
 もはや、叩く前の手を振り上げる動作だけでも痛みを感じるような気がした。
「ごめんなさいっ……ひぅっ……ごめんな、さいっ……!」
 お尻に痛みが走るのと同時に、心臓や内臓までもが強く掴まれたようにギュッとする。
 せっかく、無駄がないよう外で待ち合わせをしていたのに、家を出てきた精市をわざわざ舞い戻らせることになってしまった。
 それも、歩きながらスマホを見ていたという理由でだ。実にくだらない。
 どうして、もうひとつ前の交差点でやめられなかったのだろう。
 少しくらい我慢すればよかったのに。
 本当にバカだ。
 これが後悔の念というものだろうか。
「あぅ……ぅ……ううぅっ……っく」
 さっきまでは固く結んでいた口元に、力が入らない。
 ダランと精市の膝に体重を預けながら、ポロポロ落ちる涙を拭うこともできずにいた。
「あっう……! ごめ、なざ……いっ……!」
 自分を支えられないくらい脱力しているのに、打たれる衝撃にはきっちり反応を示すこの身が憎らしい。
「うぅっ……っく……ぅ…………も、しないっ……からぁ……」
 芯のない声でどうにか言うと、精市が落ち着き払った様子で口を開く。

「このところ気になっていたけど、歩きスマホが多すぎるよ」
 そうだ。
 前にもスマホで危ないと注意されているのである。
 それでどうして軽いお仕置きで済むことを期待などできようか。
「しかも信号を渡りながらだなんてもってのほかだ。さっきの、本当に危なかったよ?」
 もし自転車とぶつかったらどうなっていたか。
 それを言外に示すかのように、三発、強い平手をお見舞いされる。
「あっ……! あぁっ……! あぁうっ……!」
 お尻に手が置かれ、精市の顔が近づいてくる。
「スマホを使うなとは言わないから、歩くときは見ない。約束できるよね?」
 めいっぱい首を縦に振ると、お尻の上の手が離れていった。
「それじゃ、お仕置きはおしまい」

 服を戻されたのを合図に、よろめきながら立ち上がる。
 そのまま、両手で顔を覆って鼻をすすり上げた。
、もう怒ってないから」
 精市も立って、俯く私の頭を抱くように撫でてくれる。
 いつまでもグズグズしゃくりあげているせいだ。
「ひっ……く……、出かける、前だったのにっ……、……ごめんなさいっ……ぅ」
「反省したんだから、もう泣かなくていいんだよ」
 てんでさっぱりしていない性格で困る。
 こんな風にずっと泣かれたんじゃ、湿っぽくて鬱陶しいはずだ。
 それに引き替え精市は、さすが男テニ部長と言うべきか、叱った後の切り替えが早い。
 メリハリのきかせ方を知っている。
「言われてすぐやめられるものじゃないってこともわかるよ。何度でも注意するから」
 すでに何度も世話になっていることが情けないのである。
 この気持ちや止まらない涙は、当然自分自身に向かっているものであり、精市への恨みではない。
 忸怩たる思いというやつだ。
「もうしないって思ったんだろう? お仕置きが効いたなら大丈夫だよ」
 優しく撫でては、穏やかに言う。
 想いを口に出したわけでもないのに、心の声に答えられたような気がした。

 少しだけ顔を上げると、すかさず目を覗き込まれた。
 クスッと、精市は困ったように微笑む。
「まだ悲しそうな顔してる」
 顎を伝った涙が胸元に落ちた。
 精市が手早くハンカチを取り出して滴を押さえる。
「綺麗な服なのに」
 精市は濡れっぱなしの私の目元を親指で拭う。
 それから私をじっと見つめ、柔らかく笑った。
「服も靴も、よく似合ってるよ」
 見ていてくれたんだ。
 これまでの醜態に加えて、ますますに気恥ずかしくなり顔が熱い。
 しかしながら、口角が上がる。単細胞万歳だ。
 笑顔はぎこちなかったかもしれないけど、気持ちはもう晴れていた。

 仕切り直すように、精市は私の両肩に手をポンと置く。
「さて、お昼にしようか。たくさん泣いたらお腹が空いただろう?」
 からかうような言い草は、元気づけるためだとすぐにわかった。
 それを受けて、強めの口調で応戦する。
「……泣く前から空いてたってのに」
 アハハ、と精市が笑う。
「俺もお腹空いたよ。さあ、行こう」

 足元の鞄から鏡を取り出す。
 目は赤いが、それは仕方ない。すぐ治ることを期待しよう。
 家を出る前に塗ったカラーリップは全部落ちてしまっていた。
 落ちたリップってどこへ行くのだろう。永遠の謎だ。
 まあいいや。どうせこれから食事なのだ。
 塗り直すのはやめて、胸元の乱れを軽く直す。
 鏡を鞄の内ポケットにしまい、部屋の扉を開けて待っている精市に向かって頷いた。




<あとがき>
 同じことを何度も注意される、ってのは、お仕置きの醍醐味だと思うのです。
 まぁ、そうそう直らないよね。


20.11.09 UP