メランコリーの帰するところ

柳生比呂士

10月7日(火)
デフォルト名:進藤 由麻



 の姿は部室にあった。
 まだ誰も来ていないが、鍵当番よりも先に一人到着していた。
 さっさと朝練に来たのには理由がある。昨日のことが頭に残っていて早くに目が覚めてしまったのだ。

 柳が後輩マネージャーの林のお尻を叩いているらしい、という話を聞いた。
 昨日は突然のことで、柳をからかっただけで面白かったのだけど、帰路でふと考えたのだ。
 と柳生も、林と柳のような関係に映っているのだろうかと気にかかるようになってしまった。
 あの二人はあれでいい、先輩と後輩なのだから。でもと柳生は違う。あくまで対等である。
 紗英はどうだ。昨日の様子からすると、あんな話を平気でしてくるくらいだから、彼氏からお仕置きされるなんてあり得ないことなんだろう。
 行き場のないモヤモヤを吹っ切りたくて、書類の束を机に叩きつけた。
 
 ガチャ、とドアノブを捻る音がして作業に没頭していたことに気がつく。
「おや、さんでしたか。早いですね」
 入ってきたのは柳生だ。よりによって今日は彼が鍵当番だったらしい。せめて表をチェックしてから来るかどうか決めればよかった。
「……どういう意味よ?」
 我ながら嫌な態度だとは思った。
 朝の挨拶より早く開口一番に言う言葉ではない。
 柳生は面食らった様子で目を丸くしたが、すぐに微笑みへと表情を変えた。
「いえ、他意はありませんよ。気に障ったのでしたら申し訳ありません」
 は柳生をジロリと睨みつけてから、顔を背ける。
 どうせすぐに着替え始めるはずだ。一旦仕事を切り上げてコート整備でもしようと、部室の扉へ向かう。
「鍵の返却はまだのようですね」
 後方で呟かれた言葉に足を止める。
 何気ない一言だ。しかしカッと頭が熱くなり、勢いをつけて振り返った。
「こっちは朝早くに来てたんだから時間の感覚が違うの! これから返すわよ!」
 机に置いたままにしていた鍵を乱暴に掴む。
 実のところ、すっかり忘れていた。些細なことをあげつらわれたようにしか思えなくて、苛立ちが抑えられない。
「失礼しました。責めるつもりではなかったのですよ。私の代わりにありがとうございました」
 柳生は微笑みを向けるだけで、を咎めなかった。
 それを無視するように背中を向けて部室を出る。

 昨日、他人の口からお仕置きの話を聞いただけで、これほどまでに心を乱されている。
 小さなプライドがをこんな態度にさせているのだと自覚したくなかった。
 そして何も言われなかったらそれはそれで、柳生に胸中を見透かされているようで嫌だった。
 だったらどうしてほしいのか、自身もわかっていない。

 柳生と顔を合わせたくないが、あいにく同じクラスだ。しかも席は隣同士である。
 授業時間になれば、嫌でも目に入ってしまう。極力そちらを見ないよう、意識的に黒板へと視線を向けた。
「では分度器を使います。持ってきてますね? 忘れた人は?」
 数学教師が言ったのを聞き、はハッとペンケースの中を探る。入っていない。
 溜息をついて額を手で覆った。
 昨夜から気持ちがざわついていたせいだ。帰るまでは、準備するのを覚えていたのに。
 手を挙げようかと下唇を噛んだとき、隣の席から分度器が差し出される。
「予備があります」
 小さく声をかけられて横を向くと、柳生が薄く笑みをたたえていた。
 分度器を二枚も持ち歩いてるって何なんだ。が忘れることを予見していたとでもいうのか。それすら気に入らない。
 だが、今は入り用だ。柳生だって二枚あっても使い道はないだろう。遠慮なく使わせてもらえばいい。
 ありがとうくらい言えばよかったのだが、一言も出ていかなかった。
 気まずさを覚え、顔を背けて問題の図形に分度器を当てる。
 普段ならば忘れ物なんて滅多にしないし、ましてや授業に入るまで気がつかないなんてことはない。失態続きの自分が歯がゆくて、シャーペンの先をトントンと机に打ちつける。
 柳生のほうを見ないように、と考えれば余計にそちらを見てしまうのが人の心理だ。の視線に柳生はいちいち反応し、にこりと笑みを浮かべる。目を合わせないように慌てて前を向く。しかしまたすぐにチラリと横を見てしまう。それらを何度も繰り返していた。
 どうせ授業に身が入らないなら、借りを作らなければよかった。こんなものいらないと分度器を投げ返したい。教室じゃなかったら実行していたかもしれないことを思うと、今が授業中なのはむしろ幸いだっただろう。

 部活が始まってものイライラが収まることはなかった。
 早く一日を終えて家に帰りたいが、イライラしていていようともやるべきことはたくさんある。
 さしあたりは、17時提出期限の書類を準備しなければならない。マネージャーの誰がやってもいい仕事だが、最初の一枚を用意したがためになんとなくの役目という空気になってしまった。
(誰か手伝ってくれてもいいのに、任せっきりなんだから)
 出てきた用紙を確認しながら束ねていると、必要分を印刷し終えたところでプリンターがピーピーと音を立てた。インク切れの表示が出ている。このタイミングで助かった。今は交換をする時間も惜しい。
 ひとまとめに綴り最終確認をしていると、部室に人が入ってきた。目の端で捉えた輪郭で柳生だとわかる。今日はいやによく出くわすものだ。半ば無視する形で書類に目を通す。
「プリンターのインクが切れているようですね」
 柳生の一言を聞き、のこめかみがピクリと動く。
 どうしてこうも、癪に触る言い方ばかりするのか。我慢ならず、は紙束を机に投げつける。
「わかってるわよそんなの! 今そんな暇ないんだってば! 何その言い方、白々しいっ、なんで変えてないのかって言いたいならそう言えば!?」
 息を荒くして言い終えると、柳生は首を傾げての顔を覗き込む。
「……どうしたのですか?」
 やけに落ち着いた対応に、は声を呑んだ。
 言い返してほしかったわけではないが、このリアクションは予想していなかった。
 人間、思いがけないことをされると動きが止まってしまうものらしい。
さん、少しお話ししましょう」
 柳生がパイプ椅子を引いてきてに差し出す。それから自分用にも開いて、対面になるよう腰を掛けた。
 怒ったのではないか、という予感が頭をよぎると、苛立ちは焦りに変わっていく。沸騰しそうなほど熱くなっていた脳が急激に冷めてきた。
「い、今そんな時間、ないんだって……」
「少しだけです」
 柳生はただ心配そうに、を見ていた。
 これだけの態度をとっても、怒っている様子はない。
 仕方なく、出された椅子へ腰を下ろす。
「お疲れなのでしょうか。気が立っているようですね」
 柳生の問いかけが、再びをイラつかせる。
 感情を抑えられたのは一瞬だけだった。柳生が怒っているわけではないとなると、その口調が穏やかであればあるほど疎ましくて、沸々と苛立ちがこみ上げてくる。
さんらしくありませんよ」
「何それ、嫌味?」
 は眉間に皺を寄せてきつい眼差しを向ける。気を遣った言い方がむしろ反感をかき立てているのだと、この男にはわからないらしい。
 柳生は困惑したように視線を落とし、言葉を探しているようだった。所在なさげに眼鏡を上げる。
「上手く伝えられず申し訳ありません。何か力になれたらと思ったのですが……」
「何もないわ」
 きっぱり言うと、柳生はまたも心配そうな顔になってを見た。目を合わせたくなくて、今度はが俯く。
「なんでもないし、力になってもらうこともない。話は終わり。今忙しいの」
 静まり返る部室の空気で耳が痛い。呼吸音すらうるさく聞こえるほどだ。
「……わかりました」
 不意に手を差し出され、がビクリと体を揺らす。
 しかし柳生の視線は書類に向けられていた。
「私が提出してきましょう。いつもご用意いただきありがとうございます」
 柳生はにこやかに書類を手に取り、自分の椅子を片付けてから退室した。

 残されたは、先ほど放置していたプリンターのインクを交換しようと立ち上がる。
 の態度に、柳生も言いたいことがあるはずだ。どこで怒られてもおかしくないのに、まったく責められない。やはり何らかの気を遣われている。
 それ自体に嫌な気はしないけれど、ますますの子どもっぽい部分が浮き彫りになっているように思えた。
 カチャッとプリンターカバーを閉めると、エラーメッセージは問題なく消えた。インクで汚れた手を水で流して洗剤ポンプを押す。手ごたえが軽い。ほとんど空だ。これも特に当番が決まっていない仕事だが、しか補充していないのではないかと思うほど誰も手をつけようとしない。ついでに入れておこうと、足元の棚から4リットルボトルを持ち上げた。
 シンクの端に容器を置いて石鹸を注ぐ。七割ほど入ったころ、業務用サイズの重さが辛くなってきて左手に持ち替えた。その拍子に、振り子の動きとなった大きなボトルが容器に接触する。あっけなく倒れて床に落ち、洗剤が撒き散らされるまで、は動くことができなかった。
 はぁ、と大きく溜息をつく。
 いつもならこんなミスはしない。本当に、今日はどうかしている。
 は重い足取りで掃除用のロッカーを開く。
 ワックスがけをしてあったところに並々と洗剤をこぼしたのだ。しっかり拭いておかないと滑りやすくなってしまう。
 これくらいの後処理は一人でできる。何も問題はない。しかし、当分は足元に注意したほうがいいかもしれない。みんなに言っておいたほうがいいのかな、という思いが脳裏をかすめた。
 だがそうすると、部員中に周知されることになる。それはなんだか、ミスを吊るしあげられるようで嫌だ。
 報告する義務はない、だろう。きちんと片づけさえすればいい。
 洗剤がきれいに拭き取れたのをよく確認して、雑巾を水で洗い流した。

 蛇口を閉めると、走る足音が聞こえてきた。だんだんと近づいてくる。バタンと荒っぽく扉が開けられたかと思うと、二年生部員の切原が駆け込んできた。部室に一歩入った途端、足を滑らせ派手に素っ転ぶ。
「ってー! 何だここ、めっちゃ滑るんスけど」
 あっ、とが微かに声を上げる。切原が通った箇所に、飛び散った石鹸が残っていたのだ。
 気づかなかったとはいえ彼に悪いことをした。咄嗟に謝ろうとするが、もう一つの人影を認めてそれをやめる。切原に続いて柳生が入ってきた。
「大丈夫ですか、切原くん。だから走ると危ないと言ったんです。……おや、それにしても、確かに滑りますね」
 二人の様子をじっと見つめすぎた。の視線に柳生が顔を上げたので目が合ってしまった。
 サッと背中を向けて掃除用具を仕舞う。
 目が合った後に逸らしても遅いが、声をかけられたくなかった。
 二人はグリップテープを取りに来たらしく、すぐに出て行きそうだった。洗剤はその後で改めて拭くことにする。
「切原くん、先に戻っていてください。私は少し用事を済ませてから行きますので」
「へーい」
 先輩にはちゃんと返事しなさいよ、などといつものなら注意するところだが、何も言わないのを見て切原は少しだけ不思議そうな顔をしつつも、素直に部室を出て行った。
 柳生も出ていけばいいものを、の横まで歩み寄ってくる。
さん、何かありましたか?」
「……何かって?」
「床が滑りやすくなっているようでしたので、何かをこぼしたのかと」
「だったら何?」
 出ていった声は、が意図したよりずっと不愛想に響いた。
 柳生は次の言葉を発さない。シンとする間が妙に気持ちを焦れさせる。
「片付けたんだから、それでいいでしょ」
 沈黙に耐え切れず、取り繕うように一言を付け加えたが、なんの取り繕いにもなっていない。感じの悪さが増しただけだ。
 柳生がわずかに眉をひそめた。
「……切原くんは転びましたよ」
「走るからでしょ。自業自得」
さん、そんな言い方は……」
「もう、しつこいのよ! 片付けたって言ってるじゃない!」
 言葉を遮り、ドアに向かって歩き出す。
 しかし、後ろから腕を掴まれた。構わず進もうとするが、振り切ることができない。
 が逃げるのを止めようとする柳生の指が、腕に深く食い込む。
「痛った……」
 やむなく足を止めると、力はすぐに緩められた。さん、と声を掛けられて視線を上げる。
「今日の態度は目に余りますよ」
 さっきはそんなことを言わなかったくせに。結局黙っていられないなら寛大な振りをしないでほしい。どうして自分ばかり子ども扱いされなくてはならないのか。
 これまでのことまで蒸し返されて、の目に涙が滲んでくる。
「誰にでも調子が悪い日はあります。ですが、だからといって何をしてもいいわけではありませんよ」
 はギリ、と奥歯を噛む。正論であるだけに、何も言い返せない。
「切原くんに謝ってください」
 柳生はの目を真っ直ぐに見据え、はっきりと告げた。
 だって謝ろうとしたのだ。柳生さえ来なければごめんと言っていた。
 しかし、柳生の前でそういう姿を見せるのが、今日は特に、どうしても嫌で、言えなくなったのだ。
 そんな責任転嫁が認められるはずなくても、素直にはなれない。
「……私が、ミスしてばかりだから呆れてるんでしょ」
「いいえ。ミスがいけないという話ではありません。言動を改めてくださいと言っているんです」
「嘘よ、馬鹿だと思ってる」
「思いません」
「嘘よっ!」
 力任せに、柳生の手を振りほどく。
 扉の方向へ逃げ去ろうとするが、再び腕を掴まれた。
「話は終わっていませんよ」
「いやっ……話すことなんてない!」
 もう一度振り払おうとするが、柳生はびくともしなかった。
 思った以上の力に怯み、は動きを止める。
 顔を上げると、柳生は厳しい目でを見ていた。
さん、少し頭を冷やしましょう」
 ぐいっと腕を引かれ、体全体が傾いた。よろけた上体は柳生の膝に倒れ込む。すぐ近くにあったベンチで腹這いにさせられたのだ。
 事態に気づいても今更遅かった。
 
 パシッ! と平手がお尻に落とされる。
「あっう!」
 頭を冷やせと言われても、こんなことをされて冷静になんかなれるわけがない。
 の頭を支配するのは焦りと、憎らしさと、泣きたい気持ちだけだ。
 パシンッ! と続けて打たれ、痛みも伴うものだったということを実感させられる。とにかく、冷静にはなれやしない。
 制服の上からでも、連続の平手は充分に痛かった。しかし痛み以上に、屈辱で涙がこみ上げてくる。
 力の差は歴然だ。肉体的な強さのみならず、知性も理性も人としての器も、まるで敵わない。子どものようにお尻を叩かれると、それら全部を突きつけられるようで苦しい。
「痛ぁいっ! ムカついたからって当たらないでよ!」
 違う。そんなことが言いたかったのではない。苛立ちに任せて当たり散らしているのはのほうだ。
 心の中で弁解したって無意味だった。柳生はより一層強い平手での暴言に応じる。
「あぁっ! やぁあっ!」
 お尻がジンジンと熱を持ち始めている。そんなことはお構いなしに右手が振り下ろされ、更なる一発を与えられた。
「いぅっ……!」
 止まる気配のない連打にうめき声が漏れる。
 こんなもの、いつまでも浴びせられてはたまらない。は身を捻って柳生を見上げる。
「やぁっ……やめてよっ! やめてったら!」
 ちょうど逆光になった角度のせいで、レンズの奥の目が見えない。柳生がを見ているのかどうかさえ、わからない。
 ひとつだけ確かなのは、なおも右手は振りかぶられており、次の一打が間もなくやってくるということだ。
「あぁあっ! ……っぅ」
 衝撃でビクッと体が跳ねると、後ろを向いた姿勢など保っていられなかった。またすぐに手が上がるのがわかり、首がすくむ。

 もう泣きたかった。
 こんなにもうまくいかない一日ってあるだろうか。恋人からお仕置きをされていることへの忌まわしさに囚われてとった態度のせいで、またお仕置きをされるだなんて、笑い話にもならない。
 全部自分が蒔いた種だとしても、湧き上がる悲しみだってそれはそれで本物なのだ。やりきれなさはそう簡単に消えたりしない。
 パシィン!
「あっ……ぅっ……!」
 強烈な一打に背中が反りかえる。の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
 スカートの上から叩かれているだけだというのに、痛い。腹が立つやら恐ろしいやらで、頭は冷静になるどころか混乱の一途をたどる。
 続けてお尻の下のほうめがけて掌が飛んできて、あまりの痛さに足を跳ね上げた。
「ひっく……なによ……いつも子ども扱い、ばっかり……!」
 嗚咽混じりに声を上げると、柳生の手が止まった。はしゃくり上げながら、目元を指で拭う。
「怒らせたく、ないのにっ……」
 いつも大人の対応で紳士的な、柳生に釣り合う人でいたい。
 それだけなのに、どうしてこうなってしまうのだろう。
 ボロボロと涙が落ち、拭ったばかりの頬は再び濡れていく。
 ふぅ、と溜息をつくのが頭の後ろで聞こえた。
「どうして私が、こうしてお仕置きをすると思いますか?」
 柳生が意外なほど柔らかい口調でそう尋ねるものだから、は興奮を忘れて目をパチパチとさせる。
「それ、は……私が、馬鹿だから、で……」
「いいえ。むしろ逆です」
 ひっく、と震えた背中に手が置かれた。
さんほどの人ならば、私が何も言わなくても本当はわかっているでしょう。いいことと悪いことの区別がつくはずです」
 が息を呑む。柳生の言葉を反芻し、頭の中で繰り返し考えた。
 褒められた振る舞いではなかったと、は自分でわかっている。だから柳生は、信じて見守ってくれていたのだ。
 それに甘えて謝ろうとしないのは、のわがままでしかない。
さんは反省したら、きちんと謝れる人ですよ。そのことに気づいてほしくて、お仕置きをするんです」
 自分で直せるはずなのにそれをしないから、柳生はを叱るのだ。
 凝り固まっていた心が途端にほぐれていく。
「ごめん、なさい……」
 驚くほど自然に言葉が出ていった。何をこだわっていたのか自分でも変だと思うくらいだ。

 体を起こされた。きちんと反省して謝れたと、柳生が認めてくれたということだ。
 立ちあがり、目をぐしぐしと擦る。
「私、今日、ひどかったわよね……授業中とか、貸してもらって、お礼、言いたかったのに……」
 再び涙が滲んできて声を詰まらせる。
 素直でない自分が悔しかった。そんなもの、失礼な態度をとっていい理由になんてならないというのに。
 柳生は腰を上げ、の乱れた髪を整えるように優しく頭を撫でつける。
「大丈夫です。わかっていますよ。気持ちは充分に伝わっています」
 柳生がの背中をゆっくりと擦る。落ち着いた低音で囁かれると、安心感がこみ上げてきた。柳生にもたれかかるようにして、胸元に頬を寄せる。
「嫌いになったり、してない……?」
「していませんよ。それは絶対にありません」
 心強い言葉を受け、応えるようにギュッと抱きつく。
 柳生から叱られることに対する不安が少し薄れる気がした。
 当然叱られないに越したことはないけれど、愛情をもってのためにしてくれるお仕置きならば、それは喜ばしいものなのかもしれない。

 ハッと我に返り、胸に埋めていた顔を上げる。突然体を離したに、柳生が驚いた顔をした。
「部活中、だったわね……」
「そうでしたね」
 柳生が納得したように笑みをこぼす。
 は鞄から分度器を取り出してきた。両手でそれを持ち、柳生に差し出す。
「ありがとう。助かったわ」
「お役に立てて何よりです」
 はひとつ照れ笑いを浮かべ、扉の方向へ歩き出す。
「赤也にも、一言謝ってくる」
 ドアノブに手をかけ振り返ろうとしたとき、ツルッと足を取られた。そうだ、ここは滑るんだった。
 景色が回転する中で、危ない、と柳生が飛んでくるのが見える。
 衝撃に備えて固く目を瞑ったけれど、ポスンと背中を抱きとめられた。
 そっと目を開けると、まるで王子様が姫を抱えるような構図で、柳生に支えられているのがわかった。
 の顔がカッと熱くなる。怪我なく済んだにもかかわらず、の体は転んだ瞬間よりもカチカチにこわばっていた。
 急いで立ち上がろうとして再び足を滑らせ、またも柳生の腕の中に収まってしまう。ひとり慌てるに、柳生がクスリと笑いを漏らした。
 はつられるように、あるいは諦めたように笑って柳生に体を預ける。
「……先に、ここの掃除ね」
「それがいいでしょう」
 柳生は柔和な微笑みを浮かべて、ゆっくりと頷いた。




<あとがき>
 さんにとっての小さな山場のお話でした。
 これを機に、お仕置きを少しだけ前向きに捉えられるようになったかなと思います。
 そして次の『小春日和の午後』へ続くと……どうにか繋がる感じになったでしょうか。

 『小春日和の午後』と、その次の『親愛なる風紀委員』はSecretシリーズ構想より前に書いたもので(実に9年前……ヒィ)、連作にするつもりもなかったので設定・本文ともに今以上に未熟ですが、ちょちょっと手直ししてどうにかなるような程度でもないし、まるっと書き直すくらいなら新しい話を書きたいので、なんとか収まりがよくなるよう配置を考えました。
 次の2作はお仕置きのノリがわりと軽い上に、ちゃんもお仕置き受け入れてる感があったため、それまでに山をひとつ越えてる感じかな? と思い、ここまでの5話の流れを作りましたが……どうかもろもろ目を瞑ってやってくださいませ。
 以後の話でもっと上手く書けるよう精進してまいります!


21.01.24 UP