書のこころ
柳蓮二10月9日(木)
デフォルト名:林 綾子
今日も、いつも通り朝練がスタートした。
朝練はあまり時間が取れないので、やることも限られている。
数人いるマネージャーで手分けして仕事をするのだけれど、今日は部室の掃除当番だった。
私は一人、学校でしか見たことのないあの箒、自在箒というらしいアレを持ち、眠い目を擦りながら室内を掃いていた。
ロッカーの前に置かれている人数分の鞄。
これがとにかく邪魔なのだ。
ひょい、と箒で押せるほど軽いものでもない。
真田副部長なんて、体力づくりのために12キロの石を持ち歩いているというのだから、恐れ入る。
正直、掃除のたびに移動させるこっちの身にもなってほしい。
副部長の鞄をずるずる引いて端に寄せたあと、隣にある蓮二の鞄を手に取った。
寝起き特有のだるさから、動きがにぶくなっているのがわかる。
弾みをつけて持ち上げ、目的の位置で落下させた。
ほとんど投げたに近いかもしれない。
ガチャン、と嫌な音がした。
鞄の底で何か重さのあるものが床とぶつかったような感じだった。
やってしまったかもしれない、と思うと同時に背筋が凍りつく。
眠気も一気に吹き飛んだ。
慌てて鞄を開け、底にあるものを確認した。
硯(すずり)だ。
書道を嗜む蓮二には必需品だろう。
それは見事なまでに真っ二つに割れていて、とてもじゃないが修復できそうになかった。
心臓の音がどんどん大きくなる。
これはやばい。
頭をフル回転させて考えようとするが、どうしよう、という思いがぐるぐる渦巻くだけだった。
新しい硯を買ってこっそり戻しておくか。
いや、この使い込んだものの代わりにはならない。
すぐに気づかれてしまう。
書道といえば真田副部長も浮かんだ。
相談してみようか。いや、素直に蓮二に言えと諭されるだけだろう。
この状況を、蓮二に何と説明しよう。
知らないうちに割れていたのを私が気づいた、なんて嘘をついても見破られるに違いない。
かといって、鞄を投げたら割れました、と本当のことを言っても絶対怒られる。
どう考えても私が悪い。
蓮二とは、小学生のときから付き合いがある。
近所に蓮二が引っ越してきてからの仲で、その頃から妹のように面倒を見てもらいっ放しだ。
それだけに、蓮二に叱られるのが何より怖かった。
昔馴染みだから敬語こそ使わないけれど、ひとつの年の差は大きい。
可愛がってくれる人であると同時に、最も恐ろしい存在でもある。
こんな形で大事な硯を割ったなんてとても言えない。
時計を見ると、8時15分になろうという時間だった。
もうじき部員が戻ってくる。
それまでに、この割れた硯をどうにかしなければ。
石くずのようなものがボロボロ落ちてきそうだったので、とりあえずひとまとめにしたい。
その辺りにあったビニール袋へ硯を入れた。
蓮二の鞄に入ったままだと、割れていることに気づかれてしまう。
部室内を見回し、隠せそうなところを探す。
……ここしかない。
二つほど空きがあるロッカーに目を止めた。
そのうちの一つを開けてみると、古いラケットやネットが押し込められていた。
手前のスペースに、袋ごとゆっくり置く。
もう割れているものを今更遅いのだけど、なんとなく粗雑に扱う気になれなかった。
念のため、鍵をかける。
着替えにしか使わないロッカーに施錠している人は誰もいない。
でも何かの拍子に開くのではと気がかりで、鍵を使うことにした。
空き二つのうち片方だけ閉まっているのも変だから、もう一方にもかけておく。
やるだけのことをやっても、何の達成感も得られなかった。
集めていたゴミを捨て掃除道具を片づけているうちに、部員が朝練を終えて戻ってきた。
その中にレギュラーもいたけれど、蓮二の方を見ることができない。
部員たちに「お疲れさまです」とぎこちなく言い、逃げるように部室を出た。
授業中も、勉強どころじゃなかった。
今朝のことが頭から離れない。
見つかってしまうだろうか。バレたらどうしよう。
よく考えたら、余計なことをせず、鞄に入れたままにしておけばよかった。
そうすれば蓮二は、自分で割ったか、勝手に割れたかと判断したかもしれないのに。
失敗した、と唇を噛む。
あのままでは、いつかは追及されるだろう。
それが明日になるか一週間後になるかはわからない。
それまでこの気持ちを抱えて過ごさなければいけないと思うと、蓮二と顔を合わせるのが憂鬱だった。
そして放課後、早くもその時はやってきた。
「、ロッカーの鍵を貸してくれないか」
心臓が飛び上がった。
もしかして気づかれたのかと蓮二の顔を見ると、そういうわけではなさそうだった。
単純にロッカーを開ける用があるらしい。
でも、あの現物を見られたら終わりだ。
「な、なんで?」
「廃品回収が近いからな。確か空きのロッカーに古いネットなどが入っていたはずだ。開けようとしたが、鍵がかかっている」
こんな時に限って。
めまいを起こしそうだった。
いっそこのまま倒れてしまいたいくらい。
「わ、私が出しておくから、蓮二は早く、れ、練習に……」
喉のあたりまで脈打つ感覚がして、うまく言葉が出ない。
蓮二の目が少し鋭くなった。
「……何を隠している?」
気づかれた。
この挙動不審っぷりでは当然の流れだ。
「別に……何も……」
「ここを開けろ」
例のロッカー、よりにもよって二つのうち硯を入れた方を指さされた。
「開けろと言っているんだ」
何秒くらい固まっていただろうか。
蓮二の冷静な声に促され、ポケットに手を入れてチャリ……と鍵を鳴らした。
スペアキーの束から、目的の鍵を探す。
こんなに何本もあるのに、一発で見つけてしまった自分が悔しい。
ゆっくりと鍵穴にさす。
ここで突っかかって、これ以上入れることも抜くこともできなくなればいいのに。
穴が歪んで、一生開かなくなればいいのに。
そんなバカらしい考えが頭に浮かんだけれど、気持ちいいくらいにすんなりと鍵は開いた。
鍵を抜いてポケットにしまう私にロッカーを開ける気がなさそうなのを見ると、蓮二が横から手を伸ばした。
ボン、と音が鳴って金属ロッカーの扉が開かれる。
蓮二の視線が落ちて、不審な袋に目をやった。
それを持ち上げるとすぐ中身を察したようだ。
「これは……、……俺の硯か?」
頷いたのか俯いたのか、自分でもわからなかった。
「いつもと様子が違うと思っていたが……このせいだったのか」
割れた硯をじっと見たあと、次は私をにらみ据える。
「なぜ正直に言わなかった」
なぜって。
怒られるのがわかっていて言えるわけない。
ワシントンが桜の木を折った話を聞かされたことがある。
偉いとは思うけれど、そう簡単に真似はできない。
彼は普段怒られたことがなかったから正直に言えたんじゃないのか。
私のように、蓮二にお尻を叩かれると知っていたら、ワシントンだって言えないはず、絶対。
それでも、どうせ見つかるのなら、言っておいた方がマシだった。
だって今、蓮二は、硯を割ったことよりも黙っていたことを怒っているから。
「隠すのはよせ、といつも言っているだろう」
ちゃんと言ったって、怒るに決まってるのに。
そう口に出せるはずもなく目を伏せていると、蓮二が部室の入り口に近づき、カチャッと音を立てた。
部室の鍵が閉められたということは、ここでお尻を叩くということだ。
わかっていたこととはいえ、蓮二が厳しい顔でこちらへ来るのを見ると思わず後ずさりしてしまう。
蓮二はずんずん迫ってきて、腰が引けている私の腕をひっつかんだ。
ベンチに腰掛けると同時に、私を膝に乗せる。
スカートを捲り上げると、躊躇なく下着を下ろした。
お尻には蓮二の指が少し当たった程度なのに、これからされるお仕置きを思うと肩がすくむ。
パァン!
お尻への平手打ちが始まった。
左右交互に打たれるたび、体が跳ねる。
全身をこわばらせて耐えていると、蓮二が事態の核心に迫ってきた。
「割れた原因は何だ」
「……っ…………」
また心臓がバクバクと鳴り出した。
いやだ、怒られたくない。
お尻叩きをされながらもなお、これ以上の叱責を回避したかった。
蓮二がいやに淡々と言う。
「この期に及んでまだ素直に言えないか。もっと力を強めなければならないようだ」
バチンッ!
その言葉通りのきつい一発を入れられる。
「あぁっ! 待って! 待って、言うからっ……!」
さっきまでの気持ちが一気に翻ってしまった。
私に言葉を続けさせるため、蓮二は手を止めた。
「……朝の掃除で、蓮二の鞄を……ちょっと、投げるような、感じに……」
それだけしか言えなかったが、蓮二にはこれで十分だったらしい。
蓮二の手が大きく振り上げられる。
バチンッ!
「うあぅっ……!」
容赦ない平手とともに、蓮二が口を開く。
「そうか。不可抗力であれば酌量の余地があったが、それはお前が悪いな」
更に、一打一打の威力が増していく。
「そして、それを追及される前に言えないのはもっと悪い。しばらく反省していろ」
そう言い放つと、あとは黙ったままひたすらお尻を叩いてきた。
「ごめんなさいっ……ごめんなさいっ!」
必死になって叫ぶが、蓮二は全く意に介さない様子で打ち続ける。
すでにじんじんと熱くなっているところを、蓮二の大きな手で叩かれ、また叩かれ、気持ちとお尻を責め立てられる。
もう麻痺してきたってよさそうなものを、手が離れる一瞬の間にお尻は感覚を取り戻す。
そして次の痛みをモロに感じることになる。
「あぅっ……ごめんなさぁいっ……っく、蓮二、ごめんなさっ……」
いつの間にか涙がこぼれていた。
嗚咽しながらも、許してもらえるまでただただ謝るしかない。
「うっく、ごめんなさいぃ……蓮二ぃっ……」
もう痛みが引く間もなくなってきた。
次々打たれ、もう耐えられない、というところで蓮二が口を開く。
「もう隠し事をしないと誓うか?」
「もうしないっ……絶対しませんっ……」
間髪入れず答える。
「……よし、いいだろう」
そこでやっと、手を止めてもらえた。
じわん、と疼くような感覚がお尻に広がる。
肩で息をしながら鼻をすする私に、蓮二がしぼり懐紙というものを渡してくれる。
体を起こして涙と鼻水を拭う間、蓮二は何も言わず頭を撫でてくれた。
少しして私が落ち着いてくると、ゆっくり語りだす。
「まったく、一日気が気でなかっただろう」
蓮二は軽い溜息をつき、困ったように少し笑った。
「……どうしよう、硯……」
おそるおそる見上げると、蓮二が柔らかく言う。
「気にするな。簡単に割れたのなら、それだけ脆くなっていたということだ。替え時だったのだろう」
蓮二は再び私の頭を撫でたが、念を押すように一言付け加えた。
「今度から正直に言うことだ。わかったな?」
「……はぁい」
それからというもの、真田副部長の重い鞄ですら丁寧に扱うようになったのは言うまでもない。
<あとがき>
柳は厳しく、厳しく、を目標に書き進めました。
前にも日記で書きましたが、いわゆる世間一般で言う「ドS」というのは、彼が似合うと思うのです。
スパ趣味じゃないテニプリ好きの人たちにですが、「お仕置きされたいキャラ」でかなりの上位に上げられていました(非公式ですが。ちなみに幸村も上位)。
厳しいことさせたいときには彼にお願いすることにしましょう(笑)。
もうちょっと柳は鋭いんじゃないかと思うのですが(鞄から硯がなくなったことに気づかないのかとか、もともとロッカーは施錠されてないこと知ってるはず、とか)
まぁ本当に何から何まで把握してるってこともないでしょうし、妙にリアルでいいかなと。
ワシントンの桜の話は作り話だそうですね。
正直者ですよ、という証明のための嘘と言われてるようですからおもしろいですね。
それにしても、柳の書道設定ってどこに書いてあったんだっけ。
真田に教えてもらってるみたいな話だったと思います。
ファンブックをチラッと探したんですが、それっぽいイラスト(筆)とかはイメージされてるのに、明確な文章が見つからず……どこかにあったはずなんですが、まぁいいか。
12.09.12 UP