Secret -忘れ物-
幸村精市9月9日(火)
デフォルト名:安達 晴香
違和感があったのは、当日の夜だった。
ダイニングテーブルに座ると、ピリッとしたものがお尻に走ったのだ。
痛いというのか、痒いというのか。
拍手をずっとし続けて手の平がムズムズした経験があるけれど、それに近かった。
あの馬鹿力め。
精市と付き合っていたらなにかと気苦労が絶えないが、あの日は特にひどい目に遭わされたものだ。
だいたい、なんだったんだアレは。
それほど怒っている風でもないのに、過去の遅刻を蒸し返して。
最初こそ「してみる?」なんて下手に出ていたような気がするが、いつの間にか精市に呑まれていた。
考えれば考えるほどに、意図がわからない。
まあ、しかし。
もしかしたらスパンキングプレイを口実に、謝るきっかけを与えてくれたのかもしれない。
プレイ感なんて皆無に等しいくらい、本当に痛かったのだから。
遅刻についてずっと謝らずにいたことは紛れもなく私が悪いし、叱られるのも当然だ。
その手段がお尻叩きなら、お仕置きとして妥当だろう。
あれから1週間ほど経つが、理不尽なことを言ってお仕置きに持ち込もうとしてきたことなどない。
精市は、単に私を正すために叱っただけなのではないか。
そうに違いない。言いにくいことを伝えるためにプレイというワンクッションを置いて、謝らせようとしたんだ。
ならばあれでケリがついた。今後あんな真似をされることは、ないはずである。
「そろそろお仕置きされたくなってきたのかな」
楽しそうな精市の発言で、さっきまでの考えを取り下げる。
今日も今日とて精市の部屋に寄ったはいいが、早速帰りたい。
心を落ち着かせようと、冷たいお茶を喉に流し込む。
「……いいえ、全然?」
やっぱり、プレイだったんだろうか。
強行しないだけ褒めてやるべきなのかもしれない。
「またまた。お仕置きされるようなことしておいて」
いつ私がそんなことをした?
きっと表情に出ていたのだろう。
問う前に精市が口を開いた。
「今日、コンパス借りに来たよね?」
「ああそうだった、返さないと」
鞄に手を伸ばそうとしたときに発せられた言葉は不穏なものだった。
「忘れ物はいけないな」
思わず動きを止める。
「……そう来る?」
予想だにしていなかった。
忘れ物が一般的によくないとされるのはわかる。
だが、まさかそんなところを突いてくるとは。
「忘れ物くらいで怒られなきゃいけないの?」
「俺が貸さなきゃ先生に怒られただろ?」
そりゃあ、それが嫌で借りに行ったのだ。
精市め、快く貸してくれたくせに後でいびるつもりだったのか。
ひとまずコンパスの返却を諦めて、スカートの端をカリカリと引っ掻く。
「そうかも、しれないけどさ……でもコンパスひとつで……」
「社会の地図帳。理科の資料集。家庭科の教科書。あと美術の彫刻刀だっけ? 今日のコンパスで今月5回目だね」
精市は左手を出して、1本1本指を折り畳む。
地道にカウントしていたというのか。それはご苦労なことで。
「あまりに多いから、気を引き締めた方がいいんじゃないかと思ってさ」
そう言って精市は、じっと私を見つめた。
学校ではそれなりに優等生でいるつもりだが、それはこうした影の工作があるからだ。
忘れ物をしても精市から借りてどうにかする。
結果、授業では困らない。
それでいいじゃないかと思っていたが、精市にそのまま言うのは憚られた。
つまり、私はわかっているのだ。決して褒められたことではないと。
それにしたってお仕置きはあんまりだ。
精市の服の裾を軽く引っ張る。
「本当にお仕置きする気?」
「するよ。がよく反省できるようにね」
精市は微笑みつつ真っ直ぐな瞳で告げる。冗談ではないらしかった。
心臓がキュッと縮み上がる。
「あの、精市、これからは気をつけるし、もう迷惑かけないようにするよ。今まで借りてばっかりでごめん。だから、その」
必死の私に対する精市の口調は、穏やかながらきっぱりとしたものだった。
「頼ってくれるのは嬉しいんだ。実際、忘れ物しちゃうと授業にならないし。これからも貸してあげるよ。その代わり、お仕置きする。次から忘れないためにね。しっかり授業を受けられて、反省もできる。文句ないだろう?」
「………………」
文句ならある。
あるのだけど、頭に浮かぶのはお仕置きなんか嫌だという自分本位な考えだけ。
それを訴えたところで意味がないことは明白だ。
「……わかったよ。それでチャラにしてもらえるなら、お仕置きでもいい」
どうせ何を言ったって、やめるつもりなんてないんだろう。
パパッとやって、早いところ終わらせてくれ。
「じゃあ始めようか」
引っ張られるまま身を委ねたら、グンと体が持っていかれた。
精市って見かけ以上に力あるよなぁと、改めて実感させられる。
膝の上で腹這いになると、前回の出来事が脳裏に蘇ってきた。
またあの憂き目を見るのか。溜息が出そうだ。
ああもう、来るなら来い。
恐怖心を振り払うかのように、強がる気持ちが顔を出す。
喉元過ぎれば熱さを忘れるとはよく言ったものだ。
本当に人間ってやつは、時間とともに感覚が薄れていくようにできているらしい。
痛かった、だとか情報としての記憶はもちろんある。でもそれがどれぐらいかというと、死ぬほどってわけではなかったし、別に大したことなかったような、という具合なのだ。
どうってことない。少しの間だけ我慢していれば終わるのだから。
そう自分へ言い聞かせていると、スカートに手がかけられるのに気付く。
「えっ、ちょっ……」
焦って振り返るが、腰をしっかり掴まれているせいで、半身しか起こせない。
「肌の状態を見ないと危険だよ」
「肌って、そこまで脱がすの?」
「お仕置きだからね」
そう言いながら、私の下着を膝あたりまで下ろした。
「ひ……」
服を着ているのにお尻だけ出されるという、普通に生活していれば絶対ならないような格好に、顔が火照りだす。
こんなの聞いてない! と抗議するより早く、一発目の平手が振り下ろされた。
「あうっ……!」
反射的に声が出ていた。
あれ、嘘。こんなに痛かったっけ。
思考も体も固まってしまって、瞬きだけを繰り返していると、再びパァン! と鳴り響いた。
それから3発目、4発目と叩かれてようやくまともな言葉が出る。
「ごっ……ごめんなさい! ごめんなさいっ!」
とりあえず謝らなくては、ということを思い出したのだ。
だが自分で言っておきながら、一体何がごめんなさいなんだかわからない。
お仕置きを受けているこの状況に相応しそうだから口にしただけだ。
私がそう考えるくらいなのだから、精市も同じことを感じているんだろう。手を止めてくれる気配はない。
とはいえ、謝る以外に何をしろというのか。
おもちゃのようにひたすらごめんなさいを繰り返していると、不意に平手が止む。
「ごめんなさいさえ言っておけば、許してもらえると思ってる?」
精市の声がズン、と内臓の底に響く。
図星とはこういう感覚をいうのだろう。
静まり返った部屋の空気に圧倒され、返答どころか息すらできない。
おかしいな。
精市、そんなに怒ってる感じじゃないと、思ってたんだけど。
「まったく反省してないようだね」
違う、とか、そんなことない、とか言いたいのに、奇妙なくらいに言葉が出なかった。
「今日は少し厳しくしておこうか」
そう言って振り抜かれた一打に、身体が跳ねる。また平手の再開だ。
お尻ペンペンだなんて生温い名称をつけたのは一体誰だ。
この堪え難い痛みは、そんな子ども向けの雰囲気ではない。
相手が幼児だったら手加減するのか?
ならば、そこまで含めて子ども扱いしてほしいものだ。
私だってお子様用の威力で充分である。
ごめんなさいを封じられた私に言えることはもう何もなかった。
役立たずの口からは呻き声が漏れるだけだ。
考えてみれば、こんなに怒った精市に直面するのは初めてだ。
謝っても許してもらえないとなると、どうすれば怒りを鎮められるのか見当もつかない。
そうしている間にもお尻の痛みは増すばかりだった。
本能的に避けようとして身をよじったのを、グッと抱え直される。
「精市っ……ほんとに、痛いっ……」
「お仕置きだからね」
精市に訴えても、淡々とした応答があるだけで事態は変わらなかった。
これ、一生終わらないのではないだろうか。
打つ手なしの状況に追い込まれた思考は、不安でいっぱいになる。
精市は怖いし、叩かれ続けるお尻は痛いし、どうしていいかわからないしで、頭はパンク寸前だ。
そういうときに出てくるのは上手い言葉ではなく、涙だった。
じわっと、熱いものが目の端に染みてくるのがわかる。
零れないように目玉をぐるぐる動かしたが、あえなくポロリと流れ落ちて無駄な抵抗に終わった。
彼氏にお尻を叩かれて泣くなんて、相当カッコ悪いぞ。
そっと手の甲で拭うと今度は鼻水が出てくる。勘弁してほしい。
精市はそれでも手を止めてくれない。
スン、と鼻を啜る音は聞こえているはずなのに。
まさか気付いていないのではと疑いを持ち始めたころ、私の心を読んだかのような声が降ってくる。
「泣いても駄目だよ」
なんだ、わかっていたのかと思うと同時に、それでもなお許してくれないことに身が竦んだ。
お仕置き、受けて立ってやろうなんて軽率に応じたけれど、まさか泣くほど叩かれるとは思わない。
どころか、泣いてもやめてくれないなんて。
そんなに精市を怒らせてしまったんだろうか。
にしても、こんなに叩かれるほど悪いことした?
不満に思っているあたりが、反省していない証拠だ。そういうことなんだろう。
やっぱり謝るしかない。
ごめんなさいで許してもらえなかったからといって、ごめんなさいを言う必要がなくなったわけじゃない。
ちょっと考えればわかるものを、冷静さを見失っていたようだ。
「せ、いちっ……ごめん、なさいっ……」
泣いているせいで、それだけのことがスムーズに言えなくてもどかしい。
「ごめっ、なさいっ……! もう、しない、からっ……」
泣きながら喋るのがこれほど難しいとは思わなかった。
いかにもな涙声が自分の耳にも届き、みっともなさにまた泣けてくる。
それでも懸命に謝罪を繰り返していると、平手のペースは次第に緩やかになった。
「」
ずいぶん久しぶりに名前を呼ばれたような気持ちになる。
ホッとしたのも束の間、確かめるような一発が飛んだ。
「あぁっ……ぅ……!」
「反省した?」
「……っく、ぅ…、反省、したっ……! ごめ、なさいっ……」
反省しました、の方がよかったかと言い直す前にいきなり体を起こされ、精市と目が合う。
「これからは忘れ物しないように、気を付けるんだよ」
意外にも精市の表情は柔らかかった。
あれ、怒ってたわけじゃ、ないんだろうか。
何にせよ、精市の顔を見た瞬間、不安は消えた。
そして自分が泣きっ面を晒していることに気が付き、慌てて目を伏せる。
安心感と共に羞恥心が湧き上がってくる。
私が恥ずかしがっていることは精市にもわかったのか、クスッと小さく笑われた。
服を戻そうとしてくれる手を退けるように立ち、自分で下着を戻す。
……なんだかバツが悪くて、精市の方を見ることができない。
少し離れてから、ゆっくりベッドに腰を下ろす。
飛び上がるほどの痛みではないにしろ、お尻には確かな熱を感じた。
わざわざ距離をとったのに、精市は構わずその空間を詰めて、私の顔を覗き込むようにしながら背中を撫でてくる。
「お仕置きは終わったんだから、甘えてもいいんだよ」
気遣い無用、と返そうとするが乾いた咳がひとつ出ただけだった。
精市はまたクスリと笑いながらコップを渡してくれた。それを無言で受け取り、背を向ける。
痛みを散らすために忙しく息を吸ったり吐いたりしていたせいで、すっかり喉がカラカラだ。
断じて、声が出なくなるほど泣いていたわけではない。
今はそんな弁解もできないほどに、喉が渇いていた。
温くなったお茶を流し込んで喉を潤す。
相変わらず精市の目論見は不明だけれど、お仕置きがマジなものであることだけは理解した。
了承できるかどうかは別の話だが、とにかく怒られるようなことをしなけりゃいいのだ。
男が女を叱るのは、本命にだけ示す行動だと雑誌で読んだことがある。
確か、叱るときには叱ってくれるのが本当のいい男だって、書いてあった。
じゃあこれは愛の証なのか?
そういうことにしておこう。
精市と付き合うと決めた時点で、大抵のことは覚悟できているのだ。
もう一度ゴクリとお茶を飲み、乱れた心を落ち着けるのだった。
<あとがき>
プレイであり、お仕置きでもある、と言えましょうか。
不思議な分野ですよねぇ。
現実的なスパカップルに近い二人ではないかと思っています。
周囲の人は、完全に100%お仕置きなんですけどね。
まだお仕置きというものを舐めていたちゃんにも泣いてもらいました。
18.04.15 UP