Secret -雨空-

幸村精市

10月1日(水)
デフォルト名:安達 晴香



 久しぶりの雨で、今日の部活は休みとなった。
 出したばかりの冬服が濡れてしまうのは厭わしいが、早く帰れるのは好都合だ。
 ちょうど、本屋を覗きたいと思っていたのである。
 気になる付録がついている雑誌の発売日だから、見本がある店で実物を確かめたい。
 
 いそいそと帰る準備をしていたら、精市が教室にやってきた。
は部活休みかい?」
 その聞き方から、精市はそうでないことが読み取れる。
「テニス部は休まないの?」
「室内トレーニングを少しね。いつもよりは早く終わるよ」
「そっかぁ。時間があったら本屋に寄りたかったんだけどな」
 テニス部の終わりを待つのは慣れているが、こういうときは少し時間が惜しい。
「それなら、先に行ってるといいよ。終わったら連絡するから」
 小さく溜息をついた私がよっぽど残念そうに見えたのか、精市は笑って提案してくれた。
 その手もアリか。ならば遠慮なく行かせてもらうとしよう。
「ありがとう。じゃあ、連絡待ってるね」
 胸の前でバイバイと手を振る。
 精市は私の指先にそっと手を重ね、にっこり微笑んだ。
 タッチを求めるような仕草がどこかあどけなくて、私も頬が緩む。
 お互いにもう一度手を振り合ったあと、精市はテニスバッグを抱え直し、足早に教室を去っていった。
 本当に、練習熱心な部だ。

 下足場を出て、水色の傘を開く。
 おろしたての傘のおかげで、こんな天気でも少しだけ気分が上がるというものだ。
 しとしとと、長く降りそうな雨だった。
 悪天候の日に本屋へ行くのは濡らしてしまいそうで気が引けるけれど、人気の雑誌はすぐに売り切れてしまう。
 今日でないと買い逃すかもしれなかった。
 スマホを取り出し、付録の情報がまとめられているブログに再度目を通す。やはり評判がいいらしい。
 本屋に到着すると、目当ての雑誌は既に残り数冊になっていた。

 会計を終えた直後に、精市から『終わったよ、今どこ?』と連絡が入った。
 案外早く帰れたみたいだ。
 外に出て傘を広げ、足を進めながら改めて画面に目を落とす。
 『駅ビルの本屋だよ。どこかで待ち合わせる?』と打って、手を止めた。
 精市の家に双方が向かうほうが無駄がないか。
 連打で途中までを消して、文章を打ち直す。
 『精市の家に行こうか?』
 片手での入力は指がつりそうだ。
 不自然な格好になりながらも、傘を持っている左手で支えながら続きを打つ。
 いや、やっぱりひとまず場所だけ伝えて、精市の判断を待とうか。
 そう考え直し、再び文字を消しているときだった。

 前方から声がして、ハッと顔を上げる。
 だが、目に映ったのは傘の内側だ。こんなにも視界を遮っていたとは。
 夢中になってたな、危ない危ない。
 濃緑のスラックスがその先に見えていたが、馴染みのある制服を目にする前から正体はわかっていた。
 傘を持ち直し、改めて見上げる。
「早かったね精市、びっくりしたぁ」
「こっちの台詞だよ。……それ、打ちながら歩いてたのかい?」
 会えたのだから、もはや送信は不要だ。
 お役御免になったスマホの画面を消して鞄にしまう。
「前を見ないと危ないじゃないか。声をかけなかったらぶつかってたよ」
 咎めるような口調と共に厳しい視線が向けられる。
 もしかして、精市は怒ってるんだろうか。
 まずいところを見られたのかもしれない。
 こんなことが注意の対象になるなんて思いもよらなかったものだから、隠す気もなく悠長に応じてしまった。
 背中に汗がじわりと浮かんでくる。
「道路では気をつけないとって、前にも話しただろう?」
 精市は語気を強めて続ける。
 いかん、この間の話を引き合いにだされると不利だ。
 なんとか空気を和ませたくて、苦笑いで首を傾げた。
「あれは信号の話だったような……」
「……ふぅん。そういうこと言うんだ」
 一拍おいて返ってきた言葉は、きわめて冷静なものだった。
 笑うでも睨むでもない、ニュートラルな表情がすごく怖いんですけど。
 あぁ、完全に返事の方向を間違えました。
「……ごめんなさい、茶化すところじゃなかったね」
 自分の態度を大いに後悔し、上目づかいに精市を見る。
「直らないなら、お仕置きが必要かな」
 精市の声が低くなった。
 瞼を伏せた目つきの凄みに、冷たいものが背中を這い上がる。
「っ、精市、ごめんなさいその、そんなつもりじゃなくって……」
 たまらず再度謝ったけれど、精市は軽く首を横に振った。
「一度出した言葉は引っ込められないんだよ」
 にべもない返答に、ぐっと喉の奥が詰まる。
 笑ってもらえなかった冗談ほど虚しいものはない。
 根が真面目な精市と、ルーズな自分との違いが浮き彫りになって、軽薄な印象を与えただけだ。
 何も言えず俯いていると、傘の中に精市の腕が入ってきた。
 ポンと頭を撫でられる。
「だけど、すぐに謝れるのは本当に偉いと思う。そこは褒めたい」
 その手は二度ほど私の髪を梳いたあと、最後に肩へと置かれてから離れていった。
「家へ行こうか」

 精市の家をこんなに遠く感じたことはない。
 こんな状況で、お喋りなどできるはずもなかった。
 会話の代わりとして、降り続ける雨の音が耳を満たしていたのがせめてもの救いだ。
 早く着いてほしい。
 着いたところでお仕置きが待っているだけなのだが、今はただこの時間が辛い。
「鞄が濡れるよ」
「あ、うん……」
 口もきいてくれないほど怒っている、というわけじゃないみたいだ。
 精市に引っ張られるままに角度を直して、傘の生地で鞄を覆う。
 怯えるあまり、傘の差し方すらわからなくなっているらしい。

 たかが歩きスマホで、こんなに怒らせる羽目になるなんて思わない。
 素直に謝っていれば済んだのに、バカなことをしたものだ。
 チラリと、精市の横顔を見上げる。
 こんな風に、精市から叱られる日々が来るなんて想像もしていなかった。
 付き合い始めたのは一年の頃だから結構長い仲になるはずだが、精市は部活に一生懸命だったし、休みだからといって必ず会っていたわけじゃない。
 加えて病気療養中は、デートなんてもってのほかだった。
 私たちが一緒に過ごした時間って、実はそんなに多くないんじゃないだろうか。
 知らない面は、お互いにまだまだたくさんある。

 だから、こうして精市が怒る姿を見せてくれるのだって喜ぶべきなのだ。
 叱ってくれるのは愛情があるからだと言ってたじゃないの。怖がることはない。
 そう自分を奮い立たせても、やっぱり怖いって、精市に叱られるのは。
 要するに、やはり私は怒られ耐性がないらしかった。

 部屋に上がると、精市は手早く上着を脱いで壁にかけた。
 私は、こちらへ向き直る精市から目を逸らす口実であるかのように、ゆっくりとハンカチを取り出す。
 撥水加工が効いているのか、制服に浸み込まず粒の形を残した水滴がスカートの裾についていた。そこへ当て、吸い込まれていく様をじっと見守る。脚にもハンカチを滑らせてみたが、あまり濡れてはいなかった。雨がかかった鞄へも押し当てて、水を吸わせる。
 これらをひとしきり繰り返し、もうどこも拭きようがなくなった鞄を床に置くと、精市が一歩踏み出すのが見えた。
「あのっ、精市」
 お仕置きが始まってしまう。
 そう思った瞬間、声が出ていた。
 私の呼びかけに反応し、精市が動きを止める。
「……喉渇いちゃって。お茶、もらえるかな……」
 精市は少しだけ考える様子を見せたあと、静かに口を開いた。
「……わかった。座ってて」
 閉めたばかりのドアを開け、精市は階下へ向かっていく。
 座っててと言われたが、私はそのまま扉の横で立ち続けていた。
 苦し紛れの時間稼ぎだと思われたかな。いや、その通りなのだけど。
 どうにも落ち着かず、その場をウロウロしているうちに精市の足音が聞こえてくる。
 存外に早いお帰りだ。
 心の整理がつかないまま、二人分の飲み物を手にした精市が現れる。
 どうぞと差し出されたお茶に早速口をつけた。
 何か飲みたかったのは本当だ。
 緊迫感でひりついた喉は猛烈に水分を求めていた。
 精市も一口だけ含み、すぐにコップを置いてベッドに腰かける。
 私は中途半端な場所に立ったまま、ちびりちびりと飲みながら未練がましくコップを握りしめていた。
「……これ、おいしいね…………、……もう少ししたら、あったかい飲み物もいいよね、その……今日はまだ、ちょっと蒸し暑いけどさ……」

 私のくだらない四方山話は、精市の声に阻まれる。
「聞いてほしいことがあるなら聞くけど、お仕置きはなくならないよ」
 子どもに言うみたいにゆっくりと諭されたら、もう観念するほかない。
「……ごめん精市、ごまかそうとか、そういうのじゃなくて……怖くって、つい……」
は正直だね」
 精市がほんの少しだけ表情を緩めた。
 持っていたコップに手が伸ばされる。精市が私に代わって机へ置いた。
「早く済ませてしまおう。おいで」
 そして腕を引かれ、精市の膝で腹這いになった。

 腰の上へと捲られたスカートは、湿っていてなんだか重みがあるように感じた。
 下着が膝まで下ろされ、緊張で汗が滲んでくる。
 拳を強く握り、深く息を吸って、この後やってくる衝撃に備えた。
 バシッ! と音を立てて、手が振り下ろされる。
「あっ……ぅ」
 どんなに構えていても、精市の平手を耐えきれるはずもない。
 情けなく漏れる声は抑えることができなかった。
「うぅっ……ぅあっ……ごめ、なさいっ……!」
 平手はハイペースに休みなく降り注がれる。
 無意識に体が動いてしまうけれど、精市はそれを指摘することなく、ただ黙って平手を続けていた。
「っ……ごめんなさいっ……!」
 同じ場所を連続二度叩かれ、飛び上がるように体が跳ねる。
 背中をしっかり押さえつけられ、もう一度叩かれた。
「あぅっ……あっ……!」
 ずっとずっと打たれているのだ。辛抱たまらない。
 暴れる気はないけれど、少しでも位置をずらしてほしくて、こっそり上半身を浮かせた。
 そんな思惑を咎めるかのように、右側の同じところを5回も叩かれてしまう。
 体を動かせない代わりに、声だけが漏れる。
「ああっ……う、っ……ごめっ、なさっ……!」
 目元がじわっと熱くなった。
 精市の前で泣くことに慣れてしまったんだろうか。
 私の体は涙を堪えることもしなくなっていた。
 あっという間に溢れて、頬へ流れ落ちていく。
 涙は痛みを緩和する効果があると聞いたことがあるが、そんな単純な話でもない。
 泣こうが喚こうが、痛いものは痛かった。
 お尻への平手打ちは当然緩められることもなくて、バチンバチンと勢いよく降り注がれる。
「ぁうっ……ご、……っ、な、さぁっ……いっ……!」
 もうごめんなさいを言うのさえ苦しくて、息継ぎが上手くできない。
 叩かれた瞬間に呑む声が、かろうじて呼吸になっていただろうか。
 シーツに顔を突っ伏し、泣きすぎて重くなった鼻先を押し付ける。
 人のベッドに申し訳ないが、今は自分のことしか考えられなかった。


 精市が手を止める様子はなく、平手は容赦なくお尻へ飛んだ。
「どうしてお仕置きされてるか、わかるよね?」
 怖ろしいパワーの平手打ちをしながら、帰り道で何気ない話をするのと変わらない声が出せるのが不思議でならない。
 対する私は、平常とはまるで異なるヘロヘロの涙声で答える。
「まえっ……見て、なくてっ……スマホ、さわってたっ……からっ……、ひっく、ぅ……」
 そうだよね、と精市が言う。
「傘でたたでさえ視界が悪いのに、歩きながらのスマホは良くないよね。本当に、気をつけてほしい」
 頷いたつもりだったけれど、鼻を啜る仕草とどっちが勝っていただろうか。
「たとえ歩道でも自転車とぶつかったら大けがをするところだよ」
 冷静なお説教に似合わない威力の平手をお見舞いされ、背中がのけ反る。
「ああぁっ! う、っ……」
自身が危ないのはもちろん、周りの迷惑にもなるからね」
「っ、……ごめ、なさい……ぅっく……」
「今日みたいなことは絶対しないように。いいかい?」
「っく……はぃ……ひ、っく……」
 絞り出すように言うと、やっと手が止められた。

 しゃくり上げながら涙を拭いていると、精市が私の服を戻してくれた。
 抱き起こして隣へ座らせようとしたものだから、慌てて立ち上がる。
 精市はベッドに腰掛けたまま尋ねるようにこちらを見た。
 私は無言で首を横に振る。
 ややあって、お尻が痛くて座れないのだと気付いたらしく、フフッと笑い先ほど机に置いたコップのお茶に口をつけた。
 
「精市……」
「なんだい?」
 さっきは呼吸が乱れて言えなかった。改めて口を開く。
「注意、ちゃんと聞けなくて、……口答えして、ごめんなさい」
 精市は記憶を辿るように上方を見てから、何のことか思い当たったのか「ああ」と漏らして少し笑った。
「いいよ、気にしてないから」
「……そうは見えなかったけど?」
「被害妄想じゃないかな」
 危険な行為に対するお仕置きをしただけだよ、なんて言いながら精市は再度お茶を飲む。
 それからコップを置くのを目で追いかけ、仰天した。
「わっ」
「何、どうしたの」
「精市、真っ赤だよ」
 近寄って精市の右手を取る。見た目以上に熱を帯びていて、手の平と甲側では明らかに違う。
のお尻ほどじゃないよ」
 精市は苦笑しながら冗談めかして言ったけど、それには構わず赤い手の平をそっと撫でた。
「痛いでしょ?」
「全然痛くないよ」
「大事な手なのに……」
「ありがとう、大丈夫だよ。は優しいね」
 精市は赤くなったほうの手で、私の頭に触れる。

 そりゃあそうだ。
 精市の手だって、痛くなるに決まってる。
 そんなことにも気付かなかった自分にほとほと呆れた。
 なんだかすごく、すごく心苦しくなってきて、胸が押しつぶされそうになる。

 精市は私の顔を覗き込んだ。
「どうして泣くんだい、
 何も言えず、静かに頬を伝う涙を、指先で擦った。
 しかしまたすぐに一筋が流れて顎を濡らしてゆく。
、泣かないで」
 精市は私の頬を両手で包むようにして、せっせと涙を拭ってくれている。
 珍しいことに、いささか狼狽えているようだった。
 お仕置きの間は私がいくら泣こうが平然としていたというのに。
 意図しないところで泣かれると、さすがに驚くらしい。
 左頬に添えられた側の手だけが熱く脈打っているのが感じられて、むしろ涙が誘発された。
「俺なら全然平気だよ。は何も気にしなくていいから」
 精市は立ち上がって頭を傾け、改めて私に目を合わせる。
が気に病むことはないんだよ」
 優しい表情が、かえって苦しい。
 この一年間、見たくてたまらなかった精市の笑顔を、なぜ自ら陰らせるようなことをするのか。
 ギリギリと心臓が締め上げられる音が聞こえてきそうだった。
 さっきまでのようにしゃくりあげてしまうようなことはない。
 ただただ涙だけが、壊れた蛇口から漏れる水のようにツーッと流れた。
 誰にとっても手は大切だけど、それでも精市の利き手は特別なのだ。
 ラケットを握るための手を、私のせいでこんな風にしていいわけない。
 せっかく体が良くなったのに、私は何をさせているんだろう。
 抱き寄せようとしてくれたけど、くしゃくしゃの心はそれすら受け入れられない。
 拒むように身を固くすると、精市はそれ以上の無理強いはしなかった。
「弱ったな。こんなに泣かれてしまうとはね」
 精市は困惑の表情ながら笑おうとしていた。
 私の顔を見つめながら、あやすように肩をトントンとさすり続けてくれている。
「心配してくれてありがとう。俺はいいんだよ。それはのためだから、とか偉そうなことを言うつもりはなくってね」
 精市は切り口を変え、俯く私を覗き込むようにしながら粘り強くなだめようとする。
「考えてみなよ。痛ければ俺はいつでも止められるんだから。ちゃんと休み休みやってるからね。俺だって、いくらなんでも自分の手を痛めるほど叩いたりしないよ、大丈夫」
 真面目な顔でその口上はちょっとだけ面白かった。

 精市の言う通り、ヤツは自分の好きなタイミングでやめることができるのだ。
 いつまで叩かれるのかわからない私とは条件がまるで異なる。
 だいたいあっちはスポーツをする人なのだし、鍛え方が違う。
 己の限界だって見極められないはずもない。
 そうだそうだ、気を遣ってやる必要なんてなかった。
 真に憐れまれるべきは私のお尻だ。

 ……少し落ち着いてきた。
 だんだんと、いつも通りの自分らしい思考に戻ってくる。
「……ごめんね、急に」
「謝らないで。やっぱり泣いたっていいから。我慢しなくていい」
 らしくもなく、一貫性のないことを精市が言った。
 精市は「大丈夫だよ」だとか「落ち着いて」だとかのさまざまな優しい言葉をかけながら、一生懸命に私の頭や頬を撫でまわしてくれた。
 犬のマッサージじゃないんだから。
 少しおかしくて、頬が緩んだ。
「ありがとう、もう平気」

 ひとしきり泣いたおかげでスッキリした。
 泣いているときの心理ってのはまともじゃないらしい。
 さっきまでは本当に落ち込みそうな気分だった。
 それが今では、なんとくだらないことでくよくよしていたんだろうと思える。
 もしかしたら私はお尻を叩かせることよりも迷惑をかけたのかもしれないけれど、滅多に見れない顔で慰めてもらえたからいいことにしよう。

 もうこんな形で怒らせたくない。
 精市の前では言葉に気をつけようと、心から思うのだった。




<あとがき>
 たまにはおろおろと慰めてもらおうじゃありませんか!

 叱られるときに泣いても容赦しないけど、悲しんで泣いてるのは放っておけない、ってのだといいですね。


19.09.30 UP